| 長崎と孫文〜日本 |
38.孫文と関わりのある長崎関係者〜6〜 返信 引用
名前:増田泰之 日付:7月25日(火) 9時34分
金子克己〜4〜(1882〜1946)
1911年10月、武漢の武昌で辛亥革命が勃発すると、金子克己は菅野長知らよ武漢。漢口に渡り、
革命軍総司令部の黄興と一緒に戦闘に加わり、戦闘は激戦に終わりますが敗北して上海に逃げ、
その後北方に移って天津攻撃を企てます。
辛亥革命が成功して1912年1月中華民国が誕生します。
その直後、宮崎滔天は上海で雑誌『滬上評論』を発刊しますが、
編集兼発行人は金子克己で長崎で印刷しています。
39.孫文と関わりのある長崎関係者〜7〜 返信 引用
名前:増田泰之 日付:7月26日(水) 10時56分
金子克己〜5〜(1882〜1946)
孫文に代わって袁世凱が臨時大総統に就任しすると袁世凱打倒の第二革命が勃発します。
金子は上海で参戦し、後に載李陶と共に満州入に入り、
奉天の軍事撹乱を画策したが、失敗して拘留される。
40.孫文と関わりのある長崎関係者〜8〜 返信 引用
名前:増田泰之 日付:7月29日(土) 7時4分
金子克己〜6〜(1882〜1946)
袁世凱が皇帝になると袁世凱打倒の第三革命が発生します。
金子は山東省で東北軍総司令の居正と共に戦闘に加わります。
こうした戦闘には日本陸軍も参加し、
純粋な革命援助とはいえない複雑なものであったがいわゆる大陸浪人として金子は中国大陸を駆け抜けます。
41.孫文と関わりのある長崎関係者〜9〜 返信 引用
名前:増田泰之 日付:7月30日(日) 6時52分
渡邊元〜1〜(1855〜1918・安政2〜大正7)孫文の31歳上
渡邊元は長崎市深堀の出身で、佐賀鍋島藩の飛地にある深堀は6千石でありながら、小さな城下町です。
鎖国時代長崎港を警護にあたり、同時に長崎湾に浮かぶ香焼島、高島などの炭鉱を開発し、
渡邊元の父渡邊聞櫓は炭鉱経営者の責任者でした。明治維新後の廃藩置県で武士の生活は苦しくなり、
旧深堀家家臣は深堀商会を組織し、石炭経営で生活していきます。
ところが明治7年江藤新平による佐賀の乱に加担し政府に逆らったことから困難を極め、
この時の深堀商会の責任者が渡邊元です。
42.孫文と関わりのある長崎関係者〜10〜 返信 引用
名前:増田泰之 日付:7月31日(月) 10時38分
渡邊元〜2〜(1855〜1918・安政2〜大正7)孫文の31歳上
ドル箱の高島炭鉱は1874年(明治7年)官営として政府に取り上げられ、
その後は三菱に払い下げられ、高島炭鉱を失った渡邊元は端島の炭鉱開発に乗り出します。
開発費を捻出する為、政府から融資を受けますが、返済することが出来ず、
次々と借金のかたに三菱財閥に奪われます。
渡邊元は明治22年新たに松島炭鉱を入手します・炭鉱経営は順調に発展し、
明治31年から本格的に資金をつぎ込んで拡張します。
43.孫文と関わりのある長崎関係者〜11〜 返信 引用
名前:増田泰之 日付:8月1日(火) 8時48分
渡邊元〜3〜(1855〜1918・安政2〜大正7)孫文の31歳上
ところが、資金繰りに失敗し、7年後には競売にされます。渡邊元の人生は挫折の連続です。
明治政府や三菱財閥に対する執念はすさまじく、活動は炭鉱の経営にとどまらなかった。
初期の県議会で青年議員として活躍し、長崎改進党結成に参画し、
1884年の甲申政変で日本へ亡命した韓国の改革派・金玉均を支援します。
さらに孫文革命と一緒に歩んだ宮崎滔天の活動を支援します。
45.孫文と関わりのある長崎関係者〜12〜 返信 引用
名前:増田泰之 日付:8月2日(水) 9時0分
渡邊元〜4〜(1855〜1918・安政2〜大正7)孫文の31歳下
1897年(明治30年)長崎を訪れた孫文と知り合い、宮崎滔天を通じて支援します。
炭鉱経営に失敗し、十分な支援は出来きませんでした。
第二革命の失敗で孫文が日本へ亡命した時、渡邊元は「私が支援できていれば、
袁世凱に負けることはなかっただろう」と残念っがっています。
高島炭鉱を開発したのは、グラバーと習っていたんですが、
実際には渡邊元が開発したのを政府に取り上げられ三菱財閥に払い下げた話は、
地元長崎の人でもほとんど知る人はいないようです。もちろん私自信知りませんでした。
グラバーが長崎に来るまでも炭鉱開発はしていた事は知っていましたが、
まさか佐賀藩出身の方がされたとは驚きです。
何でもそうですが、最初の開発はお金も時間もかかるので相当な苦労があったように思います。
46.孫文と関わりのある長崎関係者〜13〜 返信 引用
名前:増田泰之 日付:8月3日(木) 8時6分
梅屋庄吉〜1〜(1868〜1918・明治元年〜大正7)孫文の18歳上
梅屋庄吉は長崎市西浜町の貿易商「梅屋商店」に生まれます。
1912年日本活動写真株式会社(日活)の創設に貢献します。
ハワイで興中会を組織した孫文は香港でも興中会を組織化に乗り出します。
その1895年香港で経営していた「梅屋照相館」(写真館)で初めて孫文と知り合います。
19歳で長崎を離れた梅屋庄吉は中国での放浪の旅を続け。香港で写真館を開いたのです。
その後ずっと、孫文を陰ながら応援し続けます。
47.孫文と関わりのある長崎関係者〜14〜 返信 引用
名前:増田泰之 日付:8月4日(金) 10時10分
梅屋庄吉〜2〜(1868〜1918・明治元年〜大正7)孫文の18歳上
山っ気の多い梅屋庄吉は1904年(明治37)シンガポールへ渡り映画興業に乗り出します。
フランス・バーテル社の映写機とフィルムを入手し東京へ戻り、映画会社Mパテーを設立し、
白瀬中尉の南極観測隊に撮影班を送るなど記録映画を作製します。
乱立していた映画興商会を結集し、日活を立ち上げます。その後、
日活から手を引きますが映画興業を続けます。
1913年( 大正2)孫文が正式に日本に訪問した時、
梅屋庄吉は東京で孫文を迎え、旧交を温めます。
48.孫文と関わりのある長崎関係者〜15〜 返信 引用
名前:増田泰之 日付:8月5日(土) 8時33分
梅屋庄吉〜3〜(1868〜1918・明治元年〜大正7)孫文の18歳上
第二革命に失敗した孫文は日本へ亡命したが、庄吉の邸宅に匿われます。
そこで孫文は中華革命党を組織しますが、庄吉は亡命中の孫文の生活の面倒を見ます。
1915年(大正4)孫文は東京で若い宋慶齢と結婚します。その時の仲人が梅屋庄吉夫妻なんです。
孫文死後権力を掌握した蒋介石とも親しかった庄吉は「日本人が孫文を尊敬している証」
として日本で孫文銅像を4体製作し、中国に送ります。孫文ゆかりの南京、広州、マカオ、
などに据え付けられています。
49.孫文と長崎華僑〜1〜 返信 引用
名前:増田泰之 日付:8月6日(日) 8時55分
近代長崎華僑
1859年の安政の開国で日本の鎖国が解かれ唐館(唐人屋敷)独占貿易は終わりを告げます。
これを機にこれまでの唐館貿易の流れを汲む中国人と新たに本国からやってきた
中国人達が長崎に定着して自由貿易に加わります。これらの人たちが近代長崎華僑の始まりです。
これらの中国人は主に福建、三江、広東出身者の貿易商で、明治初期に各々福建会館、三江会所、
広東会所という商工団体を設立し、長崎貿易の発展に寄与します。
1922年( 大正11)に清国領事館が設置された後、同館の指導で3団体を基礎に長崎中華商務総会
(のちの長崎華商商会)を設けます。
大正初期の長崎華僑の人口は千人程で、新地を中心に広場場、梅ヶ崎、大浦、
などに居住し、貿易、雑貨。料理店などを営んでいます。
50.孫文と長崎華僑〜2〜 返信 引用
名前:増田泰之 日付:8月7日(月) 7時13分
孫文の名言「華僑は革命の母」
中国は清朝末期にイギリスとアヘン戦争で敗れた後、列強にによる半植民地化し、
衰退の一途をたどります。世界各国に散在し、辛酸な状態に置かれていた華僑たちは「清朝打倒・中華振興」
を掲げて革命運動を起こした孫文を支持し、「金のあるものは金を、力のあるものは力を」
の精神で積極的に応援します。1911年(明治44)4月に起きた広州蜂起ででた犠牲者86人中、
実に29人が南洋地区の華僑だったんです。
51.孫文と長崎華僑〜3〜 返信 引用
名前:増田泰之 日付:8月8日(火) 9時26分
孫文の名言「華僑は革命の母」〜2〜
このようなことから孫文は「華僑は革命の母」との名言を残しています。
ちなみに、孫文の兄はハワイに渡り成功を収めた華僑の一人です。
孫文は1878年(明治11)12歳から17歳まで兄孫眉を頼ってハワイに渡り、
地元の学校に通ったという経歴もあって、孫文は海外華僑も相互に親近感を持っています。
52.孫文と長崎華僑〜4〜 返信 引用
名前:増田泰之 日付:8月9日(水) 12時1分
華僑の提灯行列
1911年10月10日、河北省で起きた武昌蜂起はまたたく間に中国各地に広まります。いわゆる辛亥革命です。
11月27日には漢民族にとっては特別な意味を持つ清朝第二の都市南京が陥落します。
長崎の華僑は12月10日に南京没落と革命勝利を祝う提灯行列を行ないます。
行列には、華僑と市民合わせて1,200名が参加し、「光復大漢」「共和政体」と記した行灯を先頭に華僑音楽隊、
仮装した歩兵。看護婦と大砲や軍艦の模型の引き物など盛況を極めます。
53.孫文と長崎華僑〜5〜 返信 引用
名前:増田泰之 日付:8月11日(金) 10時20分
華僑決死隊 長崎から上海へ
革命支援の為、多くの留学生や華僑青年が続々と長崎に終結して船で上海に渡ります。
長崎医専をはじめ日本各地の医学校で学ぶ留学生160名ほどは赤十字隊を組織して上海に向います。
横須賀海軍砲術学校や鹿児島第七高等学校などで学ぶ留学生55名が革命軍に身を投じる為上海に向う途中、
長崎に一時上陸し広場場の四海桜で革命軍勝利の前祝をして気勢を上げています。
神戸・横浜の決死隊80名が上海へ向う途中長崎に寄港します。
これは上海軍政府の要請で一行を引率する馬聘三は5万圓の軍資金を上海に届ける任務も帯びています。
54.孫文と長崎華僑〜6〜 返信 引用
名前:増田泰之 日付:8月12日(土) 8時14分
孫文歓迎 華僑の光栄な一日
1913年(大正2)初頭、前大総統・孫文の来崎が決まると、長崎の華僑は商務総会を中心に歓迎の準備を進めます。
2月13日孫文一行が山城丸で長崎港に入ると華僑を代表して商務総会代表の蘇道生、
陳世望、潘達初がランチで本船まで出迎え、長崎駅で上京する一行を見送ります。
55.孫文と長崎華僑〜7〜 返信 引用
名前:増田泰之 日付:8月14日(月) 11時23分
孫文歓迎 華僑の光栄な一日
孫文一行は3月21日再び長崎入りします。この夜、
領事館で開かれた徐善慶領事主催の歓迎晩餐会に出席した孫文は、日中の「国際的同盟、
人種的締盟は将来益々必至に迫られるが故に各在留民諸氏も又其の積もりにて益々親密を図り東洋の平和の為、
また両国の利益の為に大いに努力を希望する」と列席した20数名の華僑代表に向って激励の言葉を贈っています。
56.孫文と長崎華僑〜8〜 返信 引用
名前:増田泰之 日付:8月15日(火) 8時29分
孫文歓迎 華僑の光栄な一日
翌22日、華僑主催の歓迎会が開催され、会場となった館内の福建会館会議堂
(天后堂の横にあったが現在は公園になっています)には、華僑代表と李家県知事、
北川市長ら総勢70余名が参集します。
この日は、長崎在住華僑にとって最高に光栄な一日っだったようです。
57.孫文と長崎華僑〜9〜 返信 引用
名前:増田泰之 日付:8月16日(水) 8時58分
孫文歓迎 華僑の光栄な一日
歓迎会に使った収支報告書が残っていまして、歓迎会に使った費用は料理、楽隊、
人力車など五百五拾六圓、料理は広場場の四海桜に依頼、
参加費は一人参圓で不足分は福建会館、三江会所と広東会所が拠出しています。
ご愛読ありがとうございます。
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