長崎と孫文〜日本


17.孫文は、何回長崎を訪れているでしょうか? 〜5〜                 返信  引用

名前:増田泰之    日付:7月4日(火) 8時35分

第3回目の訪問

明治33年(1900)8月26日です。孫文33歳です。

この時期孫文は慶州蜂起の準備で、度々日本と中国を往復しています。
今回は上海のイギリス総領事と協議するためであり、神戸丸で長崎に立ち寄っています。

外務省の記録から
「清国亡命者孫逸仙は中山樵と称し、一昨夜11時入港の神戸丸にて来着。
今夜は船内にありしが、昨日午前11時、船員根岸某と共に上陸、丸山町鹿島屋に於いて芸妓2名を招き、
飲食の末、午後3時過ぎより大浦町艦船売込商片岡達三郎方に到り、
主人に面会、暫時休憩の上、片岡の番頭に送られ、乗船。上海に向け出発せり、
上陸中は以上の外、異常を認めず。」
と言う事で日本政府は、尾行していたことになります。


18.神戸丸〜長崎上海航路〜                             返信  引用

名前:増田泰之    日付:7月5日(水) 9時45分

明治8年(1875)になると三菱商会の横浜・上海航路が開かれ、4隻が神戸、
下関、長崎経由で週1回就航。わが国初の海外定期航路となります。

長崎が最も華やいだころの「上海航路」は、大正12年(1923)に長崎丸、
上海丸で始まる。英国で建造したこの2隻の5,000トン級高速船が長崎と上海をほぼ一昼夜で結んだ。
のちには長崎生まれの神戸丸が加わって3隻体制となります。


19.孫文は、何回長崎を訪れているでしょうか? 〜6〜                 返信  引用

名前:増田泰之    日付:7月6日(木) 8時11分

第4回目の訪問

明治33年(1900)9月3日です。孫文33歳です。

同じ神戸丸で上海から戻り、孫文は内田良平らと長崎に上陸した。翌日、
孫文は汽車で新橋に向かったと、外務省の記録ではあります。

「同一行、滞在中、九州日の出新聞社田中侍郎、福島屋に訪ねたるも、
格別の談話もなく、引取りたりと云う」

孫文が愛用した福島旅館(大村町、 現、万才町)県庁の通りにあった当時屈指の旅館。


20孫文は、何回長崎を訪れているでしょうか? 〜7〜              返信  引用

名前:増田泰之    日付:7月7日(金) 9時15分

第5回目の訪問

明治35年(1902)1月24日です。孫文35歳です。

孫文は、八幡丸で香港に向かう途中、長崎へ寄港します。

外務省の記録から
「清国亡命者孫逸仙は随員等と共に策14日午前7時入港の汽船八幡丸にて当港に寄港。
午前中上陸して散策観覧すること1時間余にして帰船。午後は一二の往訪新聞記者に渡したる外、
他の訪客を謝絶せり、記者に対しても、僅かに世事を談じたるのみにて、敢て国事を語らず。」
とあります。


21.孫文は、何回長崎を訪れているでしょうか? 〜8〜              返信  引用

名前:増田泰之    日付:7月8日(土) 7時21分

第6回目の訪問

明治40年(1907)3月5日です。孫文40歳です。

5年ぶりの長崎です。この間、情勢は大きく変わり、1905年、各地で別々に活動していた
革命結社が大同団結し、東京で中国革命同盟会が結成されました。しかい、お尋ね者の孫文は、
日本から国外追放の退去命令を受け、ドイツ船「プリンセス・アリス号」で日本を離れ、
香港に向かいます。その途中、長崎に寄港し、
船上でロシア革命党のナロードニキであるニコライ・ラッセルと会談しています。


22.ニコライ・ラッセル                                  返信  引用

名前:増田泰之    日付:7月9日(日) 7時29分

ニコライ・ラッセルは、長崎で亡命ナロードニキの革命機関紙
『ヴォーリャ』(ロシア語で自由の意味)を発行していた。
その期間発行は、胡漢民の手で中国同盟機関紙『民報』に紹介されています。
中国革命派とロシア亡命ナロードニキ派との間に共感するところが多かったのだろう。
ただし、孫文とニコライ・ラッセルとの船中密談の内容は不明である。
孫文自信、その内容を明らかにしていない



23.孫文は、何回長崎を訪れているでしょうか? 〜9〜                   返信  引用

名前:増田泰之    日付:7月10日(月) 9時3分

第7回目の訪問〜1〜

大正2年(1913)2月13日です。孫文46歳です。

中国の年号でいえば民国2年、大正2年の春の3日間です。
それまでの日本亡命時代の長崎寄港とは大きく異なり、孫文は歓迎の声でむかえられます。
明治44年(1911)10月、清朝を打倒した辛亥革命が勃発、翌年1月1日、
中華民国が誕生し、初代の臨時大総統に孫文が就任します。しかし、
権力は3ヶ月も持たず、生まれたばかりの中華民国を維持する為には、
臨時大統領の職を清朝の総理大臣であった袁世凱に譲らざるを得なくなり、
臨時大統領・袁世凱が誕生します。孫文は首都・南京を離れ、
袁世凱体制に協力し1913年に外国から鉄道施設資金を調達するため日本を訪れます。
肩書きは「全国鉄道全権」です。



24.孫文は、何回長崎を訪れているでしょうか? 〜10〜                     返信  引用

名前:増田泰之    日付:7月11日(火) 9時13分

第7回目の訪問〜2〜

大正2年(1913)2月13日です。孫文46歳です。

この日本訪問のときの孫文は、もう危険極まりない革命家ではありません。
前の臨時大総統であり、日本政府も国賓待遇で接します。
孫文一行を乗せた山城丸が2月13日、長崎に入港します。この時の状況は、
孫文の革命運動を暖かく見守ってきた長崎の『東洋日の出新聞』が詳しく報道しています。
それによれば、上陸した孫文は、載天仇(季陶)や朋友の山田純三郎を引き連れ、
出迎えた宮崎滔天と合流します。長崎では北川信従市長が出迎えますが、
そのまま鉄道院差し回しの特別列車で東京に向かっています。


27.孫文は、何回長崎を訪れているでしょうか? 〜11〜                    返信  引用 

名前:増田泰之    日付:7月14日(金) 8時24分

第8回目の訪問〜1〜

大正2年(1913)3月21日です。孫文46歳です。

東京で日本政府の要職と鉄道資金の借款交渉を済ませた孫文は、再び汽車で長崎に戻ります。
宮崎滔天の郷里熊本県荒尾市などを経由して3月21日に長崎に入ります。
その日の午後6時10分列車で長崎に入り、出迎えは仰々しい。
諫早駅から李家隆介(元石川県知事)氏が乗車し、長崎には北川長崎市長が出迎えます。
金子克己氏も佐世保から駆けつけます。
そして23日長崎港から天洋丸で上海に戻ります。わずか2泊3日の長崎滞在でしたが、
いつも通過点だった長崎としては、比較的長い滞在でした。


28.孫文は、何回長崎を訪れているでしょうか? 〜12〜                   返信  引用

名前:増田泰之    日付:7月14日(金) 8時25分

第8回目の訪問〜2〜

大正2年(1913)3月21日です。孫文46歳です。

当時の新聞には
「列車の着するや予定の如く煙花を打揚げ、爆竹を鳴らし、
後部の貴賓車より孫文氏降り立ちて、
・・・歓呼の声、プラットホームを揺るがす中を、
孫氏は例の毛皮の襟を付けたる外套を着けてシルクハットを差上げ乍ら、
威勢よく停車場楼上の貴賓室に入り」
「駅前に山をなせる群集は狂せんばかりに万歳を連呼し、
孫氏又た喜色を面に顕はしてシルクハットを振りつつ会釈し、宮崎滔天氏を先頭に俥は福島屋へと軌り」



29.孫文は、何回長崎を訪れているでしょうか? 〜13〜            返信  引用

名前:増田泰之    日付:7月14日(金) 8時44分

第9回目の訪問〜1〜

大正13年(1924)11月23日です。孫文58歳です。

長崎最後の訪問であると同時に、最後の日本訪問となります。
翌年3月、孫文は北京で客死します。この時孫文はガンに侵された病人でありましたが、
その気配を見せずに立ち振る舞います。
北京の直隷派軍閥政権が崩壊し、その後の政権構想を協議する為、
臨時執政に就いた段祺瑞が善後会議を招集し孫文の北上を要請します。
孫文はその要請を受けて北上しますが、その途中、長崎、神戸を経由し、その後に天津から北京へ入ります。

30.孫文は、何回長崎を訪れているでしょうか? 〜14〜             返信  引用

名前:増田泰之    日付:7月15日(土) 8時56分

第9回目の訪問〜2〜

孫文は上海丸で上海から長崎へ向い、23日正午に寄港し、直ちに船上で新聞記者と引見し、
さらに中国人留学生代表へ演説しています。

その時、記者に語った言葉が冒頭の一説です。
「日本が30年前に受けた苦痛は、今の中国とまったく同じだ。
多くの努力と奮闘を経て、やっと外国からの束縛を脱することができた。
そうして現在の自由がある。



31.孫文は、何回長崎を訪れているでしょうか? 〜15〜             返信  引用

名前:増田泰之    日付:7月16日(日) 7時26分

第9回目の訪問〜3〜

孫文は留学生には次のように述べています。

「もし日本人が中国の現状に真の同情を寄せるならば、中国が不平等条約を破棄し、
関税自主権、祖界、領事裁判権を回収しようとすることに支援しなければならない。
日本が中国のこうした大事業を支援すれば、中国ににおける日本の権益は、
さらに大きくなるであろう。日本が中国を支援すれば、当面の不利益を蒙るかもしれないが、
中国国民の歓心を獲得でき、中国は必ず日本と親善を深め、その程度は日々高まっていくであろう。
もし中国国民が日本に同情するようになれば、日本を少しも疑うことなく、完全に信頼することとなる。
現在の日本の産業科学と文化はすべて中国より日本が高く、中国が日本と協力すれば、
個より中国が進歩するだけでなく、日本もさらなる発展を得る。
さらに進んで中国と日本の経済同盟を構築すれば、日本の製品が自由に中国へ流通し、
互いに販路が広がる。中国は日本の国民と共に経済的に無窮の利益を得ることになる。」



32.孫文は、何回長崎を訪れているでしょうか? 〜16〜

名前:増田泰之    日付:7月18日(火) 0時0分

孫文は、日本には合計11回訪問しその内9回長崎に訪問したことになります。

長崎市館内町にある福建会館には2001年9月に上海市より長崎県に寄贈された銅像があります。
孫文が写っていた写真15枚全部を長崎県美術館に寄贈してあるそうです。


33.孫文と関わりのある長崎関係者〜1〜           返信  引用

名前:増田泰之    日付:7月18日(火) 10時12分

鈴木天眼〜1〜(1867〜1926・孫文より1歳年上)

鈴木天眼は本名・鈴木力で福島県二本松生まれ。1902年(明治35)長崎で『東洋日の出新聞』を創刊し、
宮崎滔天らと親交を深め、早くから孫文の活動を報道しています。1908年には国会議員になっています。
1936年(明治26)東京で秋山定輔が『二六新報』を発行すると主筆となって大陸政策に論陣を張ります。
上海で朝鮮開化派の金玉均が暗殺されると日本の世論は騒然となります。
朝鮮に影響力をもつ清朝に対抗すべく、朝鮮で東学党の蜂起がおきると鈴木天眼は内田良平らと
「天佑侠」を組織し、朝鮮半島へ乗り込み武装混乱を画策します。
過激な行動は日本政府に押さえつけられますが、鈴木天眼は多くの共感者を生み出しました。


34.孫文と関わりのある長崎関係者〜2〜           返信  引用

名前:増田泰之    日付:7月20日(木) 9時26分

鈴木天眼〜2〜(1867〜1926・孫文より1歳年上)

鈴木天眼は朝鮮から帰国後、宮崎滔天と酒を酌み交わせながら朝鮮武勇伝を語り、
宮崎滔天はいたく感銘し、その後天眼は孫文と知り合った宮崎滔天、
菅野長途知、金子克己たちと交流を深めます。天眼は長崎に渡り、
まず1898年(明治31年)に『九州日の出新聞』を創刊し、
ついで『東洋日の出新聞』を創設し、社長権主筆となり、
『東洋日の出新聞』には宮崎滔天を通じて孫文紹介記事が多数紹介されています。
亡命中の孫文が長崎に立ち寄ると、記者が度々船舶を訪れます。1913長崎を公式訪問した時、
孫文がわざわざ天眼宅を訪問し、これまでの協力に敬意を払います。
このときの写真が有名で、私も見た、料亭「花月」の玄関にある写真です。


35.孫文と関わりのある長崎関係者〜3〜           返信  引用

名前:増田泰之    日付:7月21日(金) 17時23分

金子克己〜1〜(1882〜1946)

福住克己として佐世保で生まれる。早稲田法律専門学校を卒業し、
佐世保で『福岡日日新聞』の佐世保支局員を勤め、すり替え版の『佐世保新報』を発行しました。
孫文の盟友となった菅野長知や宮崎滔天と親交を結んだ。
玄洋会の満州義軍に参加しいわゆる大陸浪人となる。
黒龍会編『東亜先覚志士記伝』の多くは、彼の記録によるものです。


36.孫文と関わりのある長崎関係者〜4〜            返信  引用

名前:増田泰之    日付:7月22日(土) 11時41分

金子克己〜2〜(1882〜1946)

宮崎滔天や池亨吉が発行した『革命評論』にも関係し
(編集日記に「於長崎K・F」とあるのが福沢克己)社会主義に傾倒します。
長崎でロシア革命党亡命機関紙『ヴォーリャ』を発行していたニコライ・ラッセルと交流を深めます。
1907年(明治40)長崎で孫文とラッセルの会談をセットしたのは金子克己によるものです。


37.孫文と関わりのある長崎関係者〜5〜返信  引用

名前:増田泰之    日付:7月23日(日) 11時19分

金子克己〜3〜(1882〜1946)

菅野長知とともに、中国同盟会の革命蜂起、
あるいは辛亥革命袁世凱打倒の軍事蜂起に参戦した行動派の革命家です。
1097年孫文から国民軍東軍都督任命された許雪秋の東軍顧問となった菅野長知と日本で武器(村田銃2000挺、
犬養毅から日本刀2本贈られる)を購入して幸福丸で汕頭に運送しますが、清朝側に発覚し失敗に終わります。
いわゆる「幸福丸事件」です。