長崎と孫文〜日本

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孫文〜1

孫文(そん ぶん、ピンイン:S?n Wen。1866年11月12日 - 1925年3月12日)

中国の政治家、革命家。辛亥革命を起こし、中国革命の父と呼ばれる。

字は中山 (Zh?ngsh?n)、逸仙 (Yix?an)。
        中華民国(台湾地区)では国父(國父、Guofu)と呼ばれる。

その主張を単なる冗談・大言壮語ととらえ、

孫大砲(大砲とはほら吹きに対する揶揄的な表現)と呼ぶ者もいた。

また非常に短気で激昂しやすい性格であった。

中国では孫文よりも孫中山の名称が一般的であり、
             尊敬の念をこめて「孫中山先生」と呼んでいる。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

皆さんも是非、孫文さんの掛け軸をご覧になってください!
孫文〜2〜 生涯

簡単に孫文の紹介している記事を皆さんに見てもらって、

大まかな孫文の事を知っていただきたいと思います。

広東省香山県(現中山市)の客家の農家に生まれる。

ハワイにいた兄の孫眉を頼り、
        ハワイのキリスト教系学校に学び西洋思想に目覚めるが、

兄や母が西洋思想に傾倒する孫文を心配し、中国に戻された。

帰国後、香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ

革命思想を抱くようになり、マカオで医師として開業した。

清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き、
                   1894年、ハワイで興中会を組織した。

翌年、広州蜂起に失敗して日本・アメリカ合衆国を経てイギリスに渡り、

一時清国公使館に拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表し、

世界的に革命家として有名になる。 以後、
                  革命資金を集める為、世界中を巡った。

1905年に興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成する。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

※清仏戦争は、
1884年から1885年にベトナム(越南)の領有を巡って起きたフランスと清との間の戦争。

※興中会は、1894年に孫文が創設した清朝打倒を目指す革命団体。

※中国同盟会は孫文らによって1905年8月22日に東京で結成された政治結社。
孫文〜3

1911年10月10日、武昌蜂起が起き、
      各省がこれに呼応して独立を訴えた時、孫文はアメリカにいた。

独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、

また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、

孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって彼の到着に熱狂し、
                                     翌1912年1月1日、

孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。しかし、
                           孫文は革命政府を維持するため、

宣統帝の退位と引き換えに清朝の実力者・袁世凱に総統の座を譲る。

袁世凱による独裁が始まると、反袁を唱えて活動するが、
                       袁の軍事力の前に敗れて日本へ亡命した。
孫文〜4

袁の死後は広州で政権を樹立して軍閥割拠する中国の統一を図り、
                                ソ連の支援を仰いだ。

さらに中国共産党とも協力関係を結ぶ(第一次国共合作)が、

これは蒋介石ら反共意識や財閥との結びつきの強い人物からの反発も強く、

孫文の死後に大きな揺り戻しが起きることとなる。

1925年、「革命未だならず」と遺書に記して北京に客死し、南京に葬られた。

その巨大な墓は中山陵と呼ばれる。
               また、死の前年の神戸での「大アジア主義講演」は、

欧米の侵略主義にたいし東洋の王道平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。

また死亡の背景は死亡前日に麻雀をしていて役の一つである
                                「九蓮宝燈」で上がったが、

それに関する迷信(「九蓮宝燈」で上がった場合、

その牌を焼かないと本人に不幸が訪れるという迷信が存在した)を信じず、

牌を焼かなかったため、不幸が訪れたという説もある。
孫文〜5〜革命政治家として

孫文は決して民主制を絶対視していたわけではなく、

中国民衆の民度は当時まだ低いと評価していたため民主制は時期尚早であるとし、

軍政、訓政、憲政の三段階論を唱えていた。

また、その革命方略は辺境を重視する根拠地革命であり、
                   宋教仁らの唱える長江流域革命論と対立した。

また孫文はアメリカ式大統領制による連邦制国家を目指していたが、

宋教仁は議院内閣制による統一政府を目指した。

このように孫文は決して終始革命運動のリーダーとなっていたのではなく、

常に対立する宋教仁らと新国家の方針をめぐって争ったのであった。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
孫文〜6〜中山という字の由来

孫文の紹介〜1〜に書いていますが、中国では孫文よりも
                           孫中山の名称が一般的であり、

尊敬の念をこめて「孫中山先生」と呼んでいます。

中山という字の由来は、日本亡命時代に住んでいた近くに、
                              「中山」という邸宅があり、

その字を気に入り、孫中山と号すようになった。
                 「中山家」は由緒ある公家(華族)の家柄であり、

明治天皇の母の生家にあたります。
孫文は、何回長崎を訪れているでしょうか?〜1〜

長崎を何度も訪れた中国革命の先導者

共和制を創始して国父と称され、逸仙・中山と号した。

広東省の農家に生まれ、13歳で兄を頼ってハワイにわたり、香港で医学を学んだ。

明治27年(1894)、日清戦争に際してハワイで同志と興中会をつくって

革命をめざし各地で武力闘争をおこすが、失敗と亡命をくり返した。

明治38年(1905)、東京で革命諸派を糾合して中国革命同盟会を結成、

また運動の目標として三民主義をかかげた。

明治44年(1911)に辛亥革命がおこると帰国。
                     翌年1月中華民国の臨時大総統に就任。

2月、清朝をたおすため軍閥の袁世凱に地位を譲ったが、

まもなく袁世凱の専制政治に反対する運動をおこし、失敗して日本に亡命。

この時期に長崎を訪れています。
孫文は、何回長崎を訪れているでしょうか? 〜2〜

私が、「孫文を花月で写真を見た」最初に書きましたが、

と1913年(大正2)3月22日付の写真が長崎に来た最後の時です。

革命支援へのお礼に来崎されたんです。

中国革命の父孫文やその秘書戴天仇と東洋日の出新聞社長鈴木力(天眼)夫妻や

同紙の西郷四郎、丹波翰山、それに宮崎滔天等が並んで写っています。

下記のHPは、
  東洋日の出新聞社を訪れた孫文(帽子の人)と天眼(その右)らの記念写真。

左端は宮崎滔天、右端は西郷四郎(姿三四郎のモデル)です。
西郷四郎(姿三四郎のモデル)について

孫中山こと孫文(1886〜1925)は、
          清朝を倒した中国の民主主義革命「辛亥革命」の指導者です。

9回におよぶ長崎訪問のうち、大正2年の公式訪問では、

長崎の華僑の人たちとも交流を深めています。

大正二年、孫文ら一行が長崎を訪問した際も、西郷四郎は柔道ではなく、

合気武術と思われる業(わざ)を披露したと伝えられている。その特徴が、

複数の相手で掛からせ、これを意図もなく次から次へと投げ倒したようです。

明治19年に警視庁主催の武術大会が行なわれ、
                  全国から腕に覚えの武道家たちが集まってきた。

その中にひときわ小さな選手がまじっていた。講道館代表の西郷四郎である。

もちろんまわりの連中もこんな小男ぐらいチョロイもんだとナメていたのもあってか、

試合では西郷に次々と倒されていく。

ついには決勝まで勝ちすすんで来たのです。

しかし決勝の相手は楊心流最強として知られた大男の照島太郎だ。

さすがの観衆もこれは勝負ありだと思った瞬間、

照島は頭から畳に叩きつけられた。
           この当時は互いにギブアップするまでやりあうルールである。

しかし照島はついに起きあがることができなかった。

150cmにも満たない西郷が大男の実力者をKOしたことで
                             講道館は全国の武道家たちに

幻の秘技「山嵐」とともに知れわたります。

講道館を去ったあとの西郷は故郷に帰ると講武館という塾を設立したり、

東北や九州の学校で柔道部師範をやったり
                      全国各地で柔道の普及活動を展開していく。

明治35年には長崎の「東洋日の出新聞」に記者として入社、

中国に渡って辛亥革命の現地レポートを書いたりしています。
                           この時孫文に会っているようです。

その後もいろんなことを精力的にやっていった西郷だが持病の神経痛が悪化して、

療養に来ていた岡山の尾道で1922年57歳の生涯を閉じた。

西郷の死を知った嘉納は講道館最強の柔道家として名誉段を贈った。

「西郷の前に西郷なく、西郷の後に西郷なし」講道館の強豪にのみ与えられる

賞賛の言葉を最初に冠した男である。

長崎にいた時も、何人も投げ飛ばした四郎の武勇伝は、たくさん残っています。




孫文は、何回長崎を訪れているでしょうか? 〜3〜

第1回目の訪問

明治30年(1987)11月です。

生涯の朋友となる宮崎滔天と滔天の故郷である熊本県荒尾市を訪れた時に、

長崎に立ち寄っています。案内したのは、
                    長崎で炭鉱主として活躍していた渡邉元です。

渡邉元は義侠心が強く、韓国亡命者である金玉均を支援していたんですが、

金玉均の葬儀で宮崎滔天と知り合い、宮崎滔天の活動を資金的に援助します。

滔天の紹介で孫文は渡邉元と知り合います。

長崎は中国に開かれた港であり、ほとんどの中国人は上海から船に乗り、
                                   まずは長崎に上陸して

、長崎経由で神戸や横浜にむかいます。
                     中国に渡る場合も長崎から上海にむかいます。

当時は、上海航路(長崎〜上海)しかなかったので、中国大陸の窓口でもあったようです。
宮崎滔天〜1〜

宮崎滔天の回想録
  「亡命録 渡邉元君」は亡命中の孫文と渡邉元の次のように書いています。

「明治30年の頃、私は孫文、陳白両君を彼(渡邉元)にしょうかいした。

彼は亡命の忘遺物として彼等を歓待した。其後彼の案内によりて、
                               孫、陳二君と長崎に遊び、

付近の古刹を訪れ廻りて某寺に到り、高僧の誉ある某禅師を訪ひ、

維摩経の一節に就て禅師の教誨を受けた。
         其中に白浪滔天の文句があつたのが酷く渡邉君のお気に入り、

取つて以つて私に送られたもので白浪庵滔天の号を用ゆるに至つたのである。然り、

此是れ渡邉君の賜であるのだ」

宮崎滔天は渡邉元を陰で支えてくれた「無名の英雄」と絶賛しているが、

孫文と一緒に訪れた禅寺で滔天の号を渡邉元から贈られ、

其の後は宮崎寅蔵を宮崎滔天と名乗る記念の長崎訪問です。
宮崎滔天〜2〜

宮崎滔天(とうてん)の簡単な略歴を紹介いたいます。

滔天は1871年熊本県荒尾市(現在の三井グリーンランド付近)で生まれ、

15歳の時に徳富蘇峰の大江義塾の寄宿舎に入り、自由民権運動を学びます。

東京専門学校に入学し一度は米国留学を企てますが兄・弥蔵がこれを止める。

弥蔵は弟・滔天にアジアの自由と人権を取り戻すには中国の
                              興亡盛衰がカギを握っており

中国の革命ににこそ、命を捧げるべきであると主張し、

これにいたく共鳴した滔天は22歳の時、兄と共に長崎から上海に渡航します。

しかし金が足りずにすぐに帰国、今度はその資金を捻出するために親兄弟を偽り

米国行きの名目で宮崎家の財産を処分します。

この間、妻子と別れて暮らし、赤貧洗うがごときの生活をし、

志だけを胸に中国の明日を夢見続ける。
   そんな滔天に援助の手を差し伸べたのが、後に首相になった犬養毅です。

1897年滔天27歳の時、
    犬養の斡旋により立憲改進党の外務大臣であった大隈重信に面会し、

中国事情視察のため外務省機密費の支給を得て中国に渡航します。

滔天は、香港、マカオなどをまわり、中国の革命派の人々を訪問するうちに

孫文の存在と彼が東京に居住していることを知ります。

滔天は、帰国後孫文に面会し彼の革命思想に胸をうたれ、

熱烈な支持者となり、孫文と行動をともにすることを決意します
15.孫文は、何回長崎を訪れているでしょうか? 〜4〜     

第2回目の訪問

明治33年(1900)6月11日です。孫文33歳です。

孫文は、第2回革命蜂起を準備する為、南方に向かいます。
                             その途中長崎に寄っています。

中国の北方は有名な義和団事件で大混乱に陥っていました。
                          その千載一遇のチャンスを狙って、

南方の広東で革命蜂起し、
         南方に清朝から独立した共和国を樹立しようと画策しています。

孫文は宮崎滔天らと横浜からフランス船「インダス号」に乗船して、
                              長崎経由で香港へ向かい、

さらにベトナムのサイゴンへ渡りました。

長崎では、後に有名になった大陸浪人代表格である内田良平が
                   「インダス号」に乗り込み、孫文らと合流します。

宮崎滔天は「三十三年之夢」でこの南方行きの雰囲気を伝えています。
16.内田良平                                

1874年(明治7)〜 1937年(昭和12)

明治・大正・昭和期の右翼運動指導者

1894(明治27)東学党応援のため天佑に参加して朝鮮に渡る。
                    三国干渉後対露報復のためシベリア横断。

1898年(明治31)孫文に会い援助を約束。
     1901年大アジア主義と天皇主義を標榜して〈黒龍会〉を結成し主幹。

1903年対露開戦を主張。1905年日韓合邦運動を推進。
               朝鮮併合後、有隣会を組織し、中国問題にとりくむ。

1918(大正7)米騒動を鎮圧するため「大阪朝日新聞」膺懲運動を起こし、
                          吉野作造と公開論争をして敗北。

その後、宮内某重大事件・ロシア飢餓救済運動・排日移民法反対などで活躍。

25加藤高明首相暗殺未遂事件で入獄。
    1931年(昭和6)大日本生産党を結成し総裁、満蒙独立運動を推進した。

<コンサイス日本人名事典>

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