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平戸「武家茶」鎮信流 |
松浦隆信 (道可)
1.茶道の鎮信流の開祖 次へ
2015年3月29日(日曜)
松浦隆信 (道可) |
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天文19年(1550年)、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが布教を断られた 鹿児島から平戸にやってきた。隆信は宣教師の同地での布教活動を許したので、 1553〜1561年までの間、ポルトガル船は毎年来航するようになり、 平戸は中心交易地として栄えた。 隆信は鉄砲や大砲などの武器を率先して購入した。しかし宣教師を厚遇したが、 隆信(=熱心な曹洞宗宗徒)自身はキリスト教には馴染まず、 信者の拡大は地域に軋轢を生んだ。永禄元年(1558年)、 隆信は宣教師ガスパル・ヴィレラに平戸からの退去を命じ、 これに乗じた仏教徒が教会を焼討する事件が起こった。 |
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永禄4年には商取引の揉め事でポルトガル人が殺傷される事件 (宮ノ前事件)もあり、 ポルトガル船は大村純忠の支配する横瀬浦に移ってしまった。 しかし横瀬浦でも焼討があったため、 永禄7年(1564年)に隆信が請うてポルトガル船の再入港を促し、 教会も再建されたが、 翌年にはルイス・フロイスらの周旋で自らキリシタン大名となった 大村純忠の領土の福田浦にポルトガル船は去ってしまい、 長崎港が本格開港されるに及んで平戸のポルトガル貿易は終焉した。 |
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一方で、貿易による巨万の富を築き上げた隆信は、領内でも鉄砲の製造を命じ、 火薬の備蓄や、鉄砲足軽の訓練に勤しんで、 軍備を拡大した。 その力を背景にして(衰退傾向にあった)倭寇の拠点3ヵ所の制圧し、 北松浦半島を制圧した。 隆信は、有馬氏や龍造寺氏などの近隣の大名と事を構え、 度々いくさをしながら、志佐氏や波多氏の一部を攻撃し、 婚姻や血族を養子として入れることでを松浦党の一族をまとめようとしていた。 |
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永禄6年(1563年)、後藤貴明は龍造寺隆信の威に屈したため、 武雄後藤氏の養子に送った次男後藤惟明は、 龍造寺隆信の子の後藤家信により後藤家を追われたが、 松浦隆信は飯盛城を攻めて、 長年対立してきた相神浦松浦家の松浦親(宗金)をついに屈服させた。 和議の結果、相神浦松浦家にすでに養子として入っていた 有馬晴純の子の松浦盛が他家(有田氏)に追いやり、 新たに平戸松浦家より隆信の子の九郎を養子として 親(養父と同名、松浦丹後守九郎親[4])とし、宗金を隠居させたことにより、 相神浦松浦家の平戸松浦家への従属を確かなものとした。 |
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永禄11年(1568年)、嫡男の鎮信に家督を譲って隠居したが、 実権はなおも握り続けたと言われる。 元亀2年(1571年)、壱岐を支配下に置いた。 天正9年(1581)直谷城城主の志佐純正の弟志佐純元(純意)に娘を嫁がせ、 純正の子純量を攻め滅ぼして、志佐氏を傘下に収めた。 |
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秀吉は、天正19年(1591年)8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、 肥前の名護屋に前線基地としての城築造を九州の大名に命じた。 秀吉は自分の地元名古屋と同じナゴヤという地名を奇遇に感じ、 城の立つ山の名前が勝男山と縁起がいいことにも 気を良くしこの地への築城を決めた 天正19年(1591年)9月、 平戸城主松浦鎮信に命じて壱岐の風本に城を築かせた。 その築城の担当は、平戸城主松浦鎮信、 日野江城主有馬晴信、大村城主大村喜前、 五島城主五島純玄であった(宇久純玄はこの年、姓を五島に改める)。 肥前名護屋は日本の政治経済の中心となった。 |
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私の自論 (鎮信流の開祖) 今までの事を、小生がつらつら考えるには 隆信公は名護屋にでむき、 秀吉と度々茶をもって親交を深めた事が伺える。 松浦の行く末を、茶道に託したであろう。 隆信公の功績讃えたいと思います。 私が鎮信流の道具を扱うようになってから、四拾有余年 いまでは、プライドを持って、やってきましたが、 このところ残念なことがおきました。 詳しくは後日明らかにしたいと思います。 こんにちの鎮信流はいかがなものでしょう。 |