トップ 商品案内 おもいで 還暦茶会 購入案内 長崎の産物
買います 更新情報 店主紹介 展覧会の案内 リンク集 掲示板


平戸「武家茶」鎮信流

                                              
                                                rekisi-m-a

松浦隆信 (道可)

                 1.茶道の鎮信流の開祖            次へ

       2015年3月29日(日曜)

松浦隆信 (道可)

1529年(享禄2年)- 1599年4月30日(慶長4年閏3月6日))は、

肥前国の戦国大名である。

嵯峨源氏一流松浦氏25代当主。

父は松浦興信。

子に松浦鎮信、後藤惟明、松浦親 (松浦宗金の養子)、松浦信実。後に出家し、

法名は道可、印山と号したが、一渓斎とも名乗った。


松浦氏の分家の1つである平戸松浦氏の生まれで、松浦党には総領はおらず、

上松浦党の波多氏と下松浦党の松浦氏(平戸松浦氏および

佐世保の相神浦松浦氏)が争ってきた。

父の興信の代に、

大内氏との強い結びつきにより平戸松浦氏の優位が固まりつつあったが、

天文10年(1541年)8月13日に興信は突然病で死去した。

この時、源三郎はまだ13歳の元服前で実務に当たることができなかった。

しばらくは家中の混乱もあったが、籠手田安昌や波多盛、波多武などに支えられ、

1543年になってようやく家督を継いだ。

大内義隆から偏諱を賜り、隆信と名乗り、肥前守に任じられた。

   
隆信は、普門寺の前住老甫禅師に師事し、新当流の志多信定や藤原宗卜に兵法を、
伊勢貞順に礼法[3]を学んだ。横笛の名手で、鷹狩を好んだ。

平戸城下には明の商人や(中国商人を庇護する)中国人の海賊(後期倭寇)が

多く住んでいたが、勝尾山に邸宅を構えた海賊王に「五峯」を称した王直がおり、

伝承ではこの人物がポルトガル船を水先案内して

初めて平戸に来航させたと言われる。

隆信はこれを主君筋にあたる大友義鎮に報告して互市の許可を得て、

ポルトガル貿易(南蛮貿易)が開始された。


天文19年(1550年)、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが布教を断られた

鹿児島から平戸にやってきた。隆信は宣教師の同地での布教活動を許したので、

1553〜1561年までの間、ポルトガル船は毎年来航するようになり、

平戸は中心交易地として栄えた。

隆信は鉄砲や大砲などの武器を率先して購入した。しかし宣教師を厚遇したが、

隆信(=熱心な曹洞宗宗徒)自身はキリスト教には馴染まず、

信者の拡大は地域に軋轢を生んだ。永禄元年(1558年)、

隆信は宣教師ガスパル・ヴィレラに平戸からの退去を命じ、

これに乗じた仏教徒が教会を焼討する事件が起こった。
   
永禄4年には商取引の揉め事でポルトガル人が殺傷される事件

(宮ノ前事件)もあり、

ポルトガル船は大村純忠の支配する横瀬浦に移ってしまった。

しかし横瀬浦でも焼討があったため、

永禄7年(1564年)に隆信が請うてポルトガル船の再入港を促し、

教会も再建されたが、

翌年にはルイス・フロイスらの周旋で自らキリシタン大名となった

大村純忠の領土の福田浦にポルトガル船は去ってしまい、

長崎港が本格開港されるに及んで平戸のポルトガル貿易は終焉した。

一方で、貿易による巨万の富を築き上げた隆信は、領内でも鉄砲の製造を命じ、

火薬の備蓄や、鉄砲足軽の訓練に勤しんで、

軍備を拡大した。

その力を背景にして(衰退傾向にあった)倭寇の拠点3ヵ所の制圧し、

北松浦半島を制圧した。

隆信は、有馬氏や龍造寺氏などの近隣の大名と事を構え、

度々いくさをしながら、志佐氏や波多氏の一部を攻撃し、

婚姻や血族を養子として入れることでを松浦党の一族をまとめようとしていた。


永禄6年(1563年)、後藤貴明は龍造寺隆信の威に屈したため、

武雄後藤氏の養子に送った次男後藤惟明は、

龍造寺隆信の子の後藤家信により後藤家を追われたが、

松浦隆信は飯盛城を攻めて、

長年対立してきた相神浦松浦家の松浦親(宗金)をついに屈服させた。

和議の結果、相神浦松浦家にすでに養子として入っていた

有馬晴純の子の松浦盛が他家(有田氏)に追いやり、

新たに平戸松浦家より隆信の子の九郎を養子として

親(養父と同名、松浦丹後守九郎親[4])とし、宗金を隠居させたことにより、

相神浦松浦家の平戸松浦家への従属を確かなものとした。
永禄11年(1568年)、嫡男の鎮信に家督を譲って隠居したが、

実権はなおも握り続けたと言われる。

元亀2年(1571年)、壱岐を支配下に置いた。

天正9年(1581)直谷城城主の志佐純正の弟志佐純元(純意)に娘を嫁がせ、

純正の子純量を攻め滅ぼして、志佐氏を傘下に収めた。


大友家の退潮により、

龍造寺隆信の勢いは肥前のみならず北九州を席捲するほどであったが、

1584年に隆信が薩摩島津氏の支援を受けた

有馬氏に敗れ戦死したため(沖田畷の戦い)、

松浦家も独立を保つことができた。

天正15年(1587年)には豊臣秀吉の九州平定に参陣して所領安堵を許された。

隆信は中国の文物、名器を所有していたので、翌年、

初めて京に上った際には秀吉に茶讌を所望されて、

千利休と3人で、それぞれの茶器を披露した。


文禄・慶長の役には当主たる息子が出征して隆信は出陣しなかったが、

文禄2年(1594年)、

壱岐や五島列島と朝鮮間の兵糧米の輸送の監督を秀吉に依頼され、

これを果たしたので賞された。

慶長元年(1597年)、

長門国大寧寺に僧安叟珠養に道号を付けてもらい、「印山」と号す。

慶長4年、平戸勝尾山の自邸で没した。享年72。

追称して尊勝院。

隆信は、弱小勢力に過ぎなかった平戸松浦氏を戦国大名へと躍進させて、

近世への存続の道を切り抜けさせた名君であり、松浦氏の基礎を築き、

息子鎮信によってその繁栄はより確かなものとなった。


秀吉は、天正19年(1591年)8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、

肥前の名護屋に前線基地としての城築造を九州の大名に命じた。

秀吉は自分の地元名古屋と同じナゴヤという地名を奇遇に感じ、

城の立つ山の名前が勝男山と縁起がいいことにも

気を良くしこの地への築城を決めた

天正19年(1591年)9月、

平戸城主松浦鎮信に命じて壱岐の風本に城を築かせた。

その築城の担当は、平戸城主松浦鎮信、

日野江城主有馬晴信、大村城主大村喜前、

五島城主五島純玄であった(宇久純玄はこの年、姓を五島に改める)。

肥前名護屋は日本の政治経済の中心となった。
私の自論  (鎮信流の開祖)

今までの事を、小生がつらつら考えるには

隆信公は名護屋にでむき、

秀吉と度々茶をもって親交を深めた事が伺える。

松浦の行く末を、茶道に託したであろう。

隆信公の功績讃えたいと思います。

私が鎮信流の道具を扱うようになってから、四拾有余年

いまでは、プライドを持って、やってきましたが、

このところ残念なことがおきました。

詳しくは後日明らかにしたいと思います。

こんにちの鎮信流はいかがなものでしょう。


                                                     次へ