長崎はキリシタンの町だった

2006.5.22〜6.18 連載 増田泰之 様 


5月22日(月) 8時51分
5月14日龍馬音楽祭でパネルディスカッションでゲストパネラーとしてお招きした
亀山社中時代に坂本龍馬を支援した小曾根家17代当主小曾根吉郎様から
このホームページを立ち上げられている小川社長様を紹介いただき、名刺交換させていただきました。
その後小川社長様からお電話を頂き、お店で話を伺った所
「長崎のおもしろい歴史」〜長崎の龍馬〜毎日連載しているんですが、
それを観ていただいて「是非会いたかったんです」とのことで、
このホームページに何か書いてくれないかとの事だったので、
今書いているのは、龍馬に関連する事だったので、
鎖国時代唯一開かれていた長崎の歴史全般を書いていこうと思います。
ご主人所有の「坂本龍馬の書の掛軸」も見せて頂きました。このHPに写真が掲載されています。
私も勉強しながら頑張っていこうと思いますので皆さんご支援よろしくお願いいたします。
http://8133.teacup.com/yusaku/bbs


5月23日(火)
それでは質問です(1)。
長崎のクリスチャンは何人だったでしょうか?

1570年(元亀元年)長崎が開港するんですが
(それ以前にもいろいろとあるんですがこの時代頃から始まった言えるでしょう)
それ以前の1562年唐船が初めて長崎に来航し、
ポルトガル船が1565年福田(長崎市)に来航し、海戦が起きます。
1567年アルメイダが長崎に布教する。
1569年トードス・オンサントス教会が建てられたんです。
開港する前です。この頃たくさんの教会が建てられます。
その頃は、長崎の人はすべてクリスチャンなんです。

下記のURLは長崎の年表です。

http://www4.cncm.ne.jp/~makuramoto/01.nenpyo/00.html


5月24日(水)
それでは答えです(1−1)。

1,500人だったんです。

長崎のキリスト教の歴史について、
1549年(天文18年)ポルトガル人宣教師ザビエルが鹿児島に来て、日本にキリスト教を伝え、
翌1550年、ザビエルは平戸藩主松浦隆信に招かれ、平戸で布教を行い、約100人の信者ができました。
その頃、長崎は大村純忠の領地で、
その家臣長崎甚左衛門純景の居・桜馬場城と城下村がこの一帯にありました。
現在の桜町から江戸町まで伸びた長い岬は、長崎と呼ばれていて、
少しの農民と漁師が住んでいるだけでした。
1562年(永禄5年)、純忠は横瀬浦(西彼杵郡西海町)をポルトガル貿易港として開きました。
有馬藩主義直は口之津を貿易港として開くため、
修道士ルイス・デ・アルメイダ(ポルトガル人)を横瀬浦から招き、
アルメイダは島原、口之津などで布教を行い、島原半島にキリスト教が広まって行きます。
1567年(永禄10年)修道士アルメイダは長崎に来て翌年まで布教をしました。
その後を受け継いで1570年まで長崎にいたガスパル・ヴィレイラによって、
1569年にこの地に仏寺を改造して長崎最初の教会・トードス・オス・サントス(諸聖人)教会が設けられました。
今の夫婦川町で現在の春徳寺です。

http://www4.cncm.ne.jp/~makuramoto/01.nenpyo/00.html

5月25日(木)
それでは答えです(1−2)。

1597年(慶長2年)にセミナリオ(小神学校)とコレジョ(大神学校)がおかれ、
1602年(慶長7年)には修練院もおかれました。
1570年(元亀元年)に長崎はポルトガル貿易港として開港し、長崎の岬に新しい町が開かれ、
岬の先端(現在、県庁があるあたり)にフィゲイレド神父が「岬の教会」と呼ばれる小さな教会を建て、
長崎の布教の中心となります。
こうして国際都市長崎が誕生することになりました。
1588年(天正16年)6月11日、秀吉は長崎を直轄地とし、
藤堂佐渡守寺澤志摩守を長崎に遣わし、鍋島飛騨守信生を代官に任命し、
志摩守は1592年(文禄元年)に初代長崎奉行に任じられました。
1613年(慶長17年)に出された禁教令により、トードス・オス・サントス教会は閉ざされましたが、
建物は1619年(元和5年)まで残っていました。
春徳寺境内には、現在もキリシタン(切利支丹)井戸が残っています。
みなさんも井戸を見に行かれてはいかがですか?

http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken0202/index.html

5月26日(金)
春徳寺境内には、現在もキリシタン(切利支丹)井戸が残っています。
みなさんも井戸を見に行かれて下さいと書きましたが、連絡をして見に行かれてくださいね!

電話095-822-1986 夫婦川町11-1
JR長崎駅からのアクセス
市電 / 長崎駅前から螢茶屋行に乗車し、新中川町で下車、徒歩7分。

キリシタン(切利支丹)井戸は春徳寺以外にもJR長崎駅から徒歩5分の本蓮寺があります。
ここは26聖人に1人聖ペトロ・バプチスタつかりのサン・ジェアン・バプチスタ教会とサン・ラザロ病院があった所です。
その頃の井戸が、本道右側の庭園に残っています。

見学にはお寺の許可がいるので、許可を得てから見学してください!
よく吠える、犬がいるので気をつけてくださいね!

http://www.at-nagasaki.jp/archives/000/07.html?css=area.css

5月27日(土)
それでは質問です(2)。

当時、教会は長崎に、いくつあったでしょうか?

1569年(永禄12年)ポルトガル人ガスパル・ヴィレイラが・トードス・オス・サントス教会
(現在の春徳寺)を建てたのが最初です。

1550年ポルトガル船、平戸に来航
1571年ポルトガル船、長崎入港
1634年出島築造に着手
1636年出島完成
1639年ポルトガル船の来航禁止(第5次鎖国令)

http://www.at-nagasaki.jp/archives/000/07.html?css=area.css

5月27日(土)
児島問い」

 ヨーロッパ人の日本初来。種子島にポルトガル人漂着フランシスコザビエルでしたか、
 永禄12年, 織田信長、初めてイエズス会士と会見とありましたが、
 長崎に先に来ていたのですか?そちらが早かったのですね? 
 1569年(永禄12年)ポルトガル人ガスパル・ヴィレイラが・
 トードス・オス・サントス教会(現在の春徳寺)を建てたのが最初でしたか。

 私の先祖もフランシスコ・シャヴィエルと対面してハビアンの名をもらっていました。
 勿論神道なのですが、途中で止めたそうです。

 益田さんによりますと、1549年(天文18年)ポルトガル人宣教師ザビエルが
 鹿児島に来て、日本にキリスト教を伝え、
 翌1550年、ザビエルは平戸藩主松浦隆信に招かれ、平戸で布教を行いとありますので、
 名古屋よりも早く布教していたのですね。いい勉強になりました。


5月28日(日)
児島様、おはようございます。書き込みありがとうございます。
質問は3つあると思いますので、お答えします。

1)フランシスコザビエルでしたか、1569年永禄12年織田信長、初めてイエズス会士と会見
長崎に先に来ていたのですか?そちらが早かったのですね? 

 長崎より京都に崎に来ています。 ザビエルが日本全土の布教許可を得るために。
 滞在わずか11日で離京したザビエルの後,京都布教に着手したのは,ガスパル・ビレラです、
 比叡山を焼き討ちした織田信長の入京によって事態は一転,
 当時来京していた宣教師たちを厚遇しました。
 この信長の保護によって,新たに教会(南蛮寺<なんばんじ>)や礼拝堂が建設され,
 京都でのキリシタン伝道事業は絶頂期を迎えます。

2)1569年(永禄12年)ポルトガル人ガスパル・ヴィレイラが
・トードス・オス・サントス教会(現在の春徳寺)を建てたのが最初でしたか。

 長崎で、最初に建てた教会です。
 日本で最初は1559年(永禄二年)医師アルメイダが豊後府内(大分市)に病院を建てます。
 諸説ありますが、私はこれこそが最初の教会ではないかと思います。
 最初から、教会だけを建てるには難しく思いますので、
 病気を治しながら教会としての活動をしたと思われます。
 アルメイダはイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス神父に会い、
 彼はフランシスコ・サビエルの事業を継承して日本で布教を続けました。

3)1549年(天文18年)ポルトガル人宣教師ザビエルが鹿児島に来て、日本にキリスト教を伝え、
翌1550年、ザビエルは平戸藩主松浦隆信に招かれ、平戸で布教を行いとありますので、
名古屋よりも早く布教していたのですね。いい勉強になりました。

 名古屋より早かったようです。

http://www.at-nagasaki.jp/archives/000/07.html?css=area.css

5月28日(日)
「児島」

 1)フランシスコザビエル京都到着は長崎よりも先でしたか、わかりました。
 それに教会(南蛮寺<なんばんじ>)ってよんでたんですね、
 バテレンじゃなかったのですね。さすが長崎の人は詳しいですね。

 ここで自己紹介しておきます。
 私は仕事で崎陽店主とは気の於ける仲間です、
 骨董屋でも店主は目利きとして活躍されていて、私もお世話になって助けていただいています。
 趣味はたいてい、パソコンくらい、他に植木市場にせりにいったりしています。
 お宮の祭主もしています。
 そんな関係から、神社サイドから日本の神々の歴史について
 ホームページで取り上げていますので、URLをリンクしておきます。

 店主から聞きました、増田さんは長崎で活躍していられる方だと。
 これからも、ぜひ、よろしくお願い致します。

http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html


少し順番が違ってましてすいませんでした。

5月28日(日)
それでは答えですです(2)。

14教会はあったんです。1963年(慶長18年)の全盛期の頃です。

@トードス・オン・サントス教会(桜馬場)
A山のサンタ・マリア教会(立山町)
Bサン・ドミンゴ教会(勝山町)
Cサン・フランシスコ教会(桜町)
Dサン・アントニオ教会(本大工町)
Eサン・チャゴ教会(酒屋町)
Fサン・ペテロ教会(今町)
Gミゼリ・コルジヤ教会(本博多町)
Hサン・アウグスチノ教会(万屋町)
I被昇天のサンタマリア(外浦町)
Jサンパウロ教会・イエズス会本部(江戸町)
Kサン・ジョアン・バウチタス教会(筑後町)
Lサン・ミゲル教会(立山町)
Mサン・ロレンソ教会(伊勢町)です。

タイムスリップして見てみたいですね!

昨日は、投稿ありがとうございました。気軽に投稿してください!

http://www1.odn.ne.jp/tomas/


5月29日(月)
それでは質問です(3)。

答え(2)に14教会はあったんですと書いていますが、その教会は現在の場所ではどこになるでしょうか?

Bサン・ドミンゴ教会(勝山町)は無料の資料館になってまして当時の貴重な資料などが観ることができます。

http://www.sarukuhaku.com/saruku_gaku_35.html


5月30日(火)
それでは答えですです(3ー1)。

@トードス・オン・サントス教会は長崎市桜馬場にあり、
今の華嶽山春徳寺(臨済宗建仁寺派のお寺)です。
山門の脇に、「トードス・オス・サントス教会 コレジョセミナリオ跡」の碑がが立っています。
1569年にこの地に仏寺を改造して長崎最初の教会・トードス・オス・サントス(諸聖人)教会が設けられました。
1597年(慶長2年)にセミナリオ(小神学校)とコレジョ(大神学校)がおかれました。
1602年(慶長7年)には修練院もおかれました。
1613年(慶長17年)に出された禁教令により、トードス・オス・サントス教会は閉ざされましたが、
建物は1619年(元和5年)まで残っていました。
教会は50年間建っていたことになります。
詳細は「5 長崎は、キリシタンの町だったんです」にも書いたんですが、
本堂左手奥に、当時使われていた切利支丹井戸が今でもあります。

http://park10.wakwak.com/~cdc/nagasaki/syuntokj/index.html


5月31日(水)
それでは答えですです(3ー2)。

A山のサンタ・マリア教会は長崎市立山にありました。
長崎歴史博物館(当時と同じ場所に復元した建物で石段は当時のものがそのまま使われています)が
今は建っています。
1590(天正18)年ごろ建てられた小聖堂が1603(慶長8)年に増築され、大きな教会となりました。
白亜の美しい建物で、入港するポルトガル船の目印になっていました。
山のサンタ・マリア教会といわれていました。
1605年、最初の小教区となりましたが、禁教令により1614(慶長19)年11月8日に破壊されました。
教会は24年間建っていたことになります。

http://park10.wakwak.com/~cdc/nagasaki/dejima/nabugyou.html


6月1日(木)
それでは答えですです(3ー3)。

勝山小学校(現在の桜町小学校)の一角にBサント・ドミンゴ教会跡があります。
ザビエルの他に、1609(慶長14)年、モラーレス神父を長とするドミニコ会が
京泊(現在の鹿児島県薩摩川内市)にあった教会を解体し木材を船で長崎に運び、
当時の長崎代官、村山等安が寄進した土地に建てたのがこの教会です。
現在ではそれは勝山遺跡とされ、桜町小学校の内部に展示、公開されています。
無料で開放しています。

『花十字紋瓦』とは、十字の四方の先端が花びら状に開いた、
いわゆる花十字が文様に用いられている瓦をいいます。
花十字紋は、キリシタン墓碑などにも見られ、キリスト教・キリシタンの象徴として用いられました。

禁教令により1614(慶長19)年に破壊されました。
教会は5年間建っていたことになります。

http://www.vidro.ne.jp/shinisekai/shinisekonjyaku-sekihi2.htm


「こんな話も」
「児島 」  6月2日(金)

 キリシタンといえば、日本人の先祖の方が先に使ったのが起こりのようです。
 倭族のシンボルとして、丸い形等が残っているようです。
 ずっと古い時代なんですけど、ケルト人の足跡がイングランド地方に残っていたのを
 キリストが見つけたようです。
 それがずっと使われていたとか? いやーもう、嘘のようなほんとの話です。
 アドレスをたよって、トピック表示をクリックして、
 7「インダス民族ドラビダ人はどこへ 」のドラビダ人=ケルト人。

http://24747.progoo-4.com/rental/img_bbs2/bbs.php?pid=24747&mode=pr&parent_id=472&mode2=topi


玉に魂しいが宿るドラピタ人十字」
「児島 」  6月2日(金)

 5番目も、キリシタンと関係があるので、説明しておきますと、
 ドラビダ人=ケルト人も後でつけた土地の呼び名ですから、
 一応同じ名前として、くださいね。

 古代インド王国 3 にも出ています。

 ドラピタ人は水牛の背中に乗せて 2もあります、こちらがケルト人。
 花十字はマンダラ模様とも同じとか?

http://24747.progoo-4.com/rental/img_bbs2/bbs.php?pid=24747&mode=pr&parent_id=767&mode2=topic

「昨日は小屋入りだったんです」
6月2日(金)
正式には、「くんち奉納小屋入り」と言います。

昨日は、しゃぎり(「商宮律」の中国語音・笛と太鼓)の音があちらこちらから、聞こえてきて
長崎くんちが、始まった気分になってきます。
しゃぎりは諏訪神社で奏するのを「諏訪入り」お旅所で奏するのを「お旅入り」
行列が行進している時のを「道中」と言います。
踊り町の人達は、朝8時から諏訪神社にお払いをしに行くんです。

今教会の事を書いていますが、くんちとキリシタンとは大きな関係があるんです。
そもそも、くんちを盛大にすることが、キリシタンに手を焼いていた長崎奉行にとって最高最善の政策だったんです。
長崎奉行は1634年(寛永11)諏訪神事を長崎市民一般の神事と認定しました。
つまり、諏訪神社は長崎の氏神であり市民残らず諏訪神社の氏子となったんです。
奉行所からに認められ援助されくんちは繁栄する事になります。

http://nagasaki-kunchi.com/


6月3日(土)
それでは答えですです(3ー4)。

Cサン・フランシスコ教会は長崎市役所別館の角にあったとされ
1611(慶長16)年、フランシスコ会のアスンシオン神父によって建てられていましたが、
禁教令が出されて迫害が始まり、完成しないうちに、
1614(慶長19)年に破壊されてしまった悲劇の教会です。

長崎奉行所の「桜町牢」となり、多くのキリシタンが幽閉され、
浦上四番崩れで「旅(流配の事)」に出る前の信徒たちも、この牢に入りました。

教会が4年間で完成されなかった程、大きな教会になる予定だったようです。
石碑も桜町市役所別館道路沿いにあります。

http://www.tca-japan.com/jp/html/pagej01-8.html


6月4日(日)
それでは答えですです(3ー5)。

Dサン・アントニオ教会は本大工町にあり、長崎代官村山等安が
息子のフランシスコ・アントニオ神父のために建立したものです。
助任はペトロ・クレメンテ神父であった。

長崎代官村山等安はキリシタン代官でした。
江戸時代に入ってから、妻から離れて茂木に所有する立派な屋敷で自由な生活をしていた。
そのようなことでイエズス会の宣教師の注意を受けることになり、
彼らに対して敵対の気持ちを持つようになります。
等安は息子フランシスコ神父のために教会を建て、
ドミニコ会の宣教師のために土地などを準備し、一方では乱れた生活を続けていました。
一六一四年に禁教令の便りが長崎に届いたとき、
村山等安は目覚め、禁教令の取り消しを求めて信者の署名を集めます。
ここには政治的な運動もあったようです。
代官の任務について争った村山等安と末次平蔵の対決で、
それらのすべての出来事が明るみに出て、村山は追放され、後に息子たちと一緒に処刑される事になります。

(文明堂のカステラのHPより)
信長から秀吉の時代になって、長崎の商人村山等安が
日本で初めて南蛮菓子のカステラを作り、秀吉に献上しました。
秀吉は大いに喜び、等安は後に長崎代官になっています

http://www.tokyo-bunmeido.co.jp/contents/meuseum/rekisi.html


6月5日(月)
水練の花は、きれいですね!
今、長崎さるく博の龍馬コースのガイドをしているんですが、
龍馬の銅像がある風頭公園のあじさいが、来週の土、日曜が見ごろです。

Eサン・チャゴ教会は、今の栄町長崎銀行本店で、
1603年(慶長8)メスキータ神父(天正少年使節に同行したポルトガル人司祭)が
サン・チャゴ病院を建て1606年(慶長11)サン・チャゴ病院の付属教会が建てられます。

1614年に壊されています。8年建っていた事になります。

1612年(慶長17)この教会の鐘が鋳造されていますが、
岡(竹田)藩主から明治五年に岡城内から現在地へ移され、
現在も鐘だけが大分県竹田市中川神社に移管されています。
この鐘は、大分県の重要文化財に昭和25年に指定されている。

http://www4.ocn.ne.jp/~primrose/meiji-kiji-37-3.html


6月6日(火)
それでは答えです(3ー7)。

今日、朝早く眼鏡橋を歩いていますと、20名近くのスタッフがいたので、
映画の撮影かと思いきや、コマーシャルの撮影でした。

Fサン・ペトロ教会は、今の金屋町(旧今町)にありましたが、
詳細は今の段階ではわかりません。
1614(慶長19)年に破壊されてしまった教会と言う事だけです。
わかり次第掲載します。

もし詳細をご存知のかたは、書き込みをお願いいたします


6月7日(水)
それでは答えです(3ー8)。

Gミゼリ・コルディア教会は現在の万才町の長崎地方法務局のあたりで、
1583(天正10)年日本人キリシタン、ジェスティーノ及びその妻ジェスタ夫妻が
慈善事業本部であるミゼリコルディア(教会付属慈善病院)を建てました。
長崎のミゼリコルディアは7つの分院を持ていました。

1614(慶長19)年に破壊されます。31年建っていた事になります。
破壊されますが、外部だけ残され、ミゼリコルディアの鐘は音色が良く、
長崎の町中に澄んだ音色が聞こえていたようです。

教会の機能はなくなりますが、外観だけで言いますと31年以上建っていた事になります。

http://www1.odn.ne.jp/muraoka/daionji.htm


6月8日(木)
それでは答えです(3ー9)。

Hサン・アウグスティン教会は現在の古川町で
アウグスチノ会の小教区と修道院は1612年(慶長17)ベルナルド・アラヤ神父によって
アウグスチノ教会の本部として建てられた。
その地域には戸数にして4千、1万人以上のキリスタンがいたとされました。
石碑があります。

1614(慶長19)年11月9日キリシタン禁教令により壊されました。
2年間建っていた事になります。

サン・アウグスチノ教会は11月9日に破壊された。

http://soutai.livedoor.biz/archives/2005-11.html


6月9日(金)
長崎も入梅しました。
長崎市の花でもある紫陽花がきれいな季節になりました。

それでは答えです(3ー10)。

I被昇天のサンタマリアはの万才町(当時は外浦町)の
農林中央金庫(県庁の近く県警本部の反対側)にあったようで、
「岬の教会」は1601年(慶長6)には改修されて、「被昇天のサンタマリア教会」と名前を改めます。
当時、東洋一の規模を誇る教会で、日本宣教の中心でした。

万才町の農林中央金庫の前には「外浦町碑」がありますので、皆さんも探してみてはいかがですか。

1614(慶長19)年に破壊されます。
1601年に改修されるので少なくとも13年間、教会は建っていた事になります。

http://park10.wakwak.com/~cdc/nagasaki/dejima/nabugyou.html


6月10日(土)
第18回ワールドカップ(W杯)ドイツ大会がはじまりました。みなさん寝不足にならないように!

それでは答えです(3ー11)。

Jサン・パウロ教会は現在の長崎県庁で、長崎港にポルトガル船が初めて入港したのは1571年。
新しい6町がつくられ、フィゲイレド神父がポルトガル人や日本人の信仰の中心として
町の突端に小さな聖堂を建てています。
これが長崎に最初に建った教会と思われます。

「岬の教会」と呼ばれ、のちにイエズス会の教育機関であるコレジヨと印刷所、
イエズス会日本管区長館、被昇天のサンタ・マリア教会、大神学校、セミナリヨも移ってきます。
被昇天のサンタ・マリア教会が建ったのは慶長6年(1601)で、
2年後には、そこに時計塔(やぐら)が建てられました。
大時計の文字盤には時刻がローマ数字と干支で2通りに記されているほか、
陰陽両式の日を示すカレンダー時計であり、また3つの鐘が音楽を奏するチャイム時計であった。
「市民たちは時間ごとにここに来て文字盤を見ながらチャイムを聞くのを楽しみにしていた」と
イエズス会年報に記されています。

1571年にポルトガル船を出迎えた記述があるので、1571年には建って生ますので、
破壊されれる1614年までの43年以上建っていたことになります。

当時にタイムスリップして文字盤の前でチャイムの音を聞きたいものですね。
どんな音色だったのでしょうか?

http://www.pref.nagasaki.jp/bunka/hyakusen/kotohajime/064.html


6月11日(日)

Kサン・ジョアン・バウチスタ教会は、現在の本蓮寺でJR長崎駅の近くの筑後町になります。

1591年、入港したポルトガル船の司令官ロケ・デ・メロベレイラが
住民のために寄付したお金で建てた病院であるサン・ラザロ病院と、
その横にあったフランシスコ派の司祭バウチスタが建てたサン・ジョアン・バウチスタ教会は、
教会の前にはひと並びの町があって、サン・ジョアンの町と呼ばていました。
町のうしろは海で船着き場がありました。

現在も当時の井戸が本道右側の庭園に残っています。
見学にはお寺の許可が必要です。

トードス・オス・サントスと山のサンタ・マリアとともに、この教会は長崎の三大教会と言われていたという。

1591年サン・ラザロ病院が建ち、その年か1年後サン・ジョアン・バウチスタ教会は建ったと思われますので、
破壊されれる1614年までの22,23年建っていたことになります。

http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken0207/


6月12日(月)

Lサン・ミゲル教会は、現在立山町にある長崎歴史博物館の横にあったとされているんですが、
詳細は、わかりませんので、わかり次第書いていきたいと思います。

私事で恐縮なんですが、今日の西日本新聞の長崎県版22面に写真入のコラムが掲載されていますので、
よろしければ読んでください!

今、長崎さるく博でガイドをしてまして、坂本龍馬を観光に!とコラムを書いております。

皆さんものさるく博に参加されてみてください!長崎の歴史がわかると思います。

http://www.sarukuhaku.com/


6月13日(火)

Fサン・ペトロ教会の詳細がわかりました。

Fサン・ペトロ教会は1607(慶長12)年小教区として始まり、
最初の主任は日本人パードレ・ロレソン・ラ・クルスであった。(長崎事典・歴史編 長崎文献社)
今の金屋町(旧今町)付近にあったようです。

1614年に破壊されていますので、7年間立っていた事になります。

http://www.sarukuhaku.com/


6月14日(水)

Lサン・ミゲル教会の詳細がわかりました。

現在の長崎市役所別館の地には、1612(慶長17)年にサンフランシスコ教会があり、
その辺りにサン・ミゲル墓地というキリシタン墓地があった。
この墓地は、山のサンタ・マリア教会と炉粕町のあいだにあった。
1619(元和5)年この墓地の教会が破壊され
他の墓地に葬られた遺体は全部、サン・ミゲルに移された。
のちここに牛舎ができて桜町牢と呼ばれ、
浦上四番崩れのとき浦上の信徒が入れられた。。(長崎事典・歴史編 長崎文献社)

http://www.sarukuhaku.com/


6月15日(木)

Mサン・ロレンソ教会は、現在の伊勢町あたりか、はっきりしません。

豊臣秀吉の朝鮮侵略(1592〜1597年)の時
強制連行されて来た5万人の高麗人のうちには長崎に住み着いた者もいますが、
その高麗町では7千人余が受洗し、彼ら自信寄付を集め、サン・ロレンソ教会を建てています。

1610(慶弔15)年に建立し1919(元和5)年の9年間建っていた事になります。
http://www.sarukuhaku.com/



6月16日(金)

長崎の教会が建立され、壊されるまでの年と何年間教会が建っていたかをまとめてみました。

@トードス・オン・サントス教会(桜馬場)1569年〜1619年 50年間
A山のサンタ・マリア教会(立山町)   1590年〜1614年 24年間
Bサン・ドミンゴ教会(勝山町)     1609年〜1614年 5年間
Cサン・フランシスコ教会(桜町) 1611年〜1614年 3年間
Dサン・アントニオ教会(本大工町) 1694年〜1614年 20年間
Eサン・チャゴ教会(酒屋町) 1603年〜1614年 11年間
Fサン・ペテロ教会(今町) 1607年〜1614年 7年間
Gミゼリ・コルジヤ教会(本博多町) 1883年〜1614年 31年間
Hサン・アウグスチノ教会(万屋町) 1612年〜1614年 2年間
I被昇天のサンタマリア(外浦町)    1601年〜1614年 3年間
Jサンパウロ教会・(江戸町) 1571年〜1614年 43年間
Kサン・ジョアン・バチスタ教会(筑後町)1591年〜1614年 23年間
Lサン・ミゲル教会(立山町) 〜1619年 ?
Mサン・ロレンソ教会(伊勢町)です。 1610年〜1619年 9年間

教会が長崎の街に存在していた年数をまとめてみますと、
思った以上に長い期間、教会が建っていたんだな〜と思いました。

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6月17日(土)

長崎の開港は元亀(1571)の初夏である。
最初に長崎に入港してきたポルトガル船の船長はTristao Vas de Vesigaといったようです。
当時の長崎の町は、港の中につき出ていた岬の上に
新しく建てられた教会(サン・パウロ)と其の前に開かれた6町がありました。
その町の住人は全て他国より移住してきた信者の人達で1,000人前後はいたようです。

以来、毎年のようにポルトガル船が定期的に入港したので、他国の商人達が集まってきた。
その町の発展には目をみはらせるものがありました。

協会の神父さん達は全てポルトガル、スペインの人達であり、
ポルトガル船の人達も自由に町中を歩き、町の人達もすべてが信者であったので
毎日曜ごとの教会のミサには、いつも信者で溢れ、
ラテン語の賛美歌が遠くまで響いていたそうです。

出島が出来るまでは、長崎の町にポルトガル人たちは、下宿していたんです。
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6月18日(日)

長崎の教会は、安土桃山時代から江戸時代の1614年の禁教令(1619年までまでの教会も)まで、
長崎には、14の教会がある事を紹介しました。

短いもので2年、長いもので50年も長崎の教会は建っていたんですが、平均すると13年になりました。
実際に調べて、これ程までに教会が建っていた期間が長いとは思いませんでした。

ポルトガル人が長崎の教会がもたらしたものは、単なるキリストの教えだけではなく、
病院、孤児院、学問(天文学・数学・地理学・法律学・外国語)西洋文化、印刷術、食文化、
ありとあらゆるものを教わったと思われます。

当時の教会は、日本の和風建築を改装した建物で、
当時にタイムスリップして、教会めぐりを是非したいなと思っています。

今日で約1ヶ月、長崎の教会については、書いてきたんですが、いかがでしたでしょうか、
勉強不足で皆さんにはご迷惑をおかけしました。
今日で終わりたいと思います。
ありがとうございました。

明日からは、長崎と関係のある、孫文について書いていきます。

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