長崎の歴史 奉行編
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日付:3月19日

65代長崎奉行 久世丹後守広民(ひろたみ)

(1)安永7年(1778)、唐人に花辺銀、人頭銭の貿易を許す。(2)天命2年(1782)、この年米価騰貴し盗賊、放火が多くなり、
奉行は近國から米穀を回漕させる。(3)久世丹後守が江戸に戻るとき町民は、その得を慕い、馬場郷迄見送り、日見・矢上
まで見送って恩を感謝する者もあり、諏訪社に額を奉納し奉行の武運長久を祈ったりした。


日付:2月28日

64代長崎奉行 柘植長門守正寔(まさたね)

(1)安永6年(1777)、唐船に安南金の貿易を許した(貿易定額を毎年、二十五貫目とした)。(2)天明2年(1782)4月、
奉行所は職工の賃金を定めた。(3)安永6年(1777)、天草高浜村庄屋上田伝五右衛門に外国輸出陶器の製造方を
命じた。翌年、長崎出島へ出張所を設け、外国輸出向けの陶器を販売した。 


日付:2月28日

61代長崎奉行 新見加賀守正栄(まさなが)

(1)明和2年(1765)、この年、はじめて、唐船が、花辺銀銭など古銭3370両余を輸入したので、俵物を以ってこれと替える。
(2)同年、蘭船がはじめて金・銀銭を輸入した。また、金千両を鉄銭に換えて輸出する。(3)明和3年(1766)、奉行所は
木鉢浦に石銭番所を置き、帆別銭と称して出入船から一石に付き三文、帆船一反に付き十五文をとり、
長崎港浚渫(しゅんせつ)費用とした。

日付:2月25日

54代長崎奉行 菅沼下野守定秀(しもつけのかみ)

(1)宝暦3年(1753)、用行組の党類を罰した。(2)同年9月、長崎奉行所前に目安箱を設け、諸役人の不正と抜荷の
密売者を直訴させた。(4)同4年(1754)9月、長崎会所準備金蓄積の法を制定。


日付:2月20日

51代長崎奉行 松波備前守正房

(1)寛保3年(1743)、唐船に定額外銀1000貫目分まで、俵物を以って貿易することを許した。
(2)延享元年(1744)八月、町人八名に俵物一手請方を命ずる(八名は、その祖先が、初めて、俵物貿易をした
ゆかりの者)。唐蘭船貿易の俵物をこの八名の専売として、代銀100貫目毎に、2貫700目を会所に納めさせた。
これを27銀と称した。


日付:2月19日

35代長崎奉行 永井讃岐守直允(なおちか)

宝永2年(1705)9月10日、夜唐人屋敷から出火、11棟を焼失、180軒類焼。同年11月9日、奉行は失火の
責任を追及し、唐人屋敷乙名、組頭、小役人全員を免職にして、後任は新規召抱えとした。


34代長崎奉行 林土佐守忠朗(ただあきら)

(1)元禄13年(1700)から長崎奉行の定員四名と也、二人在勤、二人在府の勤めとなる。席次は京、大阪町奉行の
上座である。(2)元禄15年(1702)十月、新地蔵所が完成した。


33代長崎奉行 大嶋伊勢守義也

元禄15年(1702)5月5日、大雨出水の為西古川町、万屋町の路上は水深三尺にもなった。

日付:2月16日

32代長崎奉行 諏訪下総守頼蔭(しもふさのかみよりかげ)

(1)元禄11年(1698)、4月11日未明、諏訪下総守の西役所から出火。焼失した。又4月23日、後興善町から出火、
22か町炎症。家屋2044戸土蔵33棟、本蓮寺、唐船貨物多数を焼失。奉行所は、米2000俵を類焼者に貸与した。


日付:2月15日

31代長崎奉行 丹羽遠江守長守(とうとうみのかみ)

(1)元禄10年(1697)、十月、長崎奉行は、代物替会所を本興善町に置いた。代物替の事務は、従来待ち年寄であったが
高木彦右衛門の建議により、あらたに、会所を設け彦右衛門が菅掌した。(2)同12年(1699)7月4日、内町、外町の
取り扱いの区別を廃止した。


30代長崎奉行 近藤備中守用章(もちあきら)

(1)元禄11年(1698)、割賦会所を長崎会所と改めた。幕府は、財政の逼迫に伴い利益の大きい長崎貿易を官営事業に
改める為、長崎奉行に命じて、割賦会所を止め、長崎会所を設立した。(2)元禄元年(1688)、唐商船の定数を七十艘と
決まっていたのを、元禄11年(1698)には入港の唐船は10艘増加して80艘、蘭船四隻が10艘に増加して定数より6隻
増加して入港を許した。(3)渡辺秀石を御用絵師兼唐絵目利の役に任命した。


日付:2月10日

29代長崎奉行 宮城越前守和澄(まさずみ)

(1)貞享4年(1687)、から奉行三名となり、長崎在勤二名、在府一名となる。(2)元禄八年(1695)火葬場所を市中三箇所に
設けた(伊良林郷矢の平
、大久保、馬込郷浜の平)。

28代長崎奉行 山岡対馬守景助

(1)貞享4年(1687)、この年から奉行の定員は「三人制」となった。(2)元禄元年(1688)、市中の人の所持する大小銃405挺
徴収して武具庫に収める。(3)同年、小瀬戸浦山上に、遠見番所を置く。異国船入港を古瀬戸から筑後町勧善寺、立山奉行所
へと注進し、遠見番人12人を増加して、二十二人とした。(4)同年、幕府は、唐商船定数を年間70艘に制限、翌年から実施した。


日付:2月7日

27代長崎奉行 大沢左兵衛基哲(もとのり)

(1)貞享4年(1689)、正月、この年から、奉行三人制となり、二名在勤した。

26代長崎奉行 宮城監物和充(まさみつ)

(1)天和元年(1681)、市中飢饉の為餓死する者多く、奉行所は銀100貫目を市民に供出し米600石を貸与した。

(2)同年、従来、奉行が日見の観桜をするときは、市民から酒肴を供するのを、以後廃止した、