長崎の歴史 奉行編
No2

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九代長崎奉行 榊原飛騨守職直(もとなお)

天正十四年ー慶安元年(1586-1648)寛永十一年(1634)五月十八日、

長崎奉行(着年月日不詳)。

同十四年(1637)十月、天草・島原のキリスト教徒及び農民ら乱を起こし、

奉行在任中の職直は、江戸から十二月五日、

長崎着、7日、鍋島勝茂の軍艦として島原に赴く。

同十五年(1638)正月二十九日、免職・閉門

(島原の乱の節軍令に違反した罪により父子共に処分)・二年後、

ゆるされ後御先鉄砲の頭・水口城番(近江國)。

墓所は感応寺(東京都谷中六丁目)。行年63歳。

〔事績〕(1)寛永11年(1634)9月、初めて諏訪神社の大祭を行い、

神輿が大波止のお旅所に渡る。

(2)同12年正月、唐船の貿易を長崎一港に限り、他港に来航する事を禁じた。

(3)同13年5月、出島を築き、ポルトガル人の市中散宿を禁止して出島一箇所に収容した。

(4)この年、長崎出生のポルトガルとの混血男女287名をマカヲに追放した。

総じて、職直、在任中の鎖国政策は手際よく進捗した。
12代長崎奉行 馬場三郎左衛門利重

(1)寛永13年5月19日、長崎に赴き、第四時鎖国令の沙汰を伝える。

(2)同14年12月5日、島原一揆が起こり、江戸から急行し、12月5日長崎に着き、

7日島原に向かい、上使・板倉重昌に属し、細川忠利の軍艦として諸勢を下知した。

のち平定後、直に、長崎に在勤する。

(3)同15年11月10日長崎奉行となった。この年、

長崎奉行の勤務制度が改正される(従来の6月に来崎、10月に帰府の制度を改め、

毎年二人の奉行が交代で在勤する事に也、与力5人、同心10人をつけられる事になった。

(4)同15年野母村日野山(権現山)に遠見番所を置き、外国船の入港を監視させ、

長崎村斧山に峰火台を設け、番所を置いて2名づつで監視に当たった。

(5)同16年7月5日、幕府の第5次鎖国令により、ポルトガル人の渡来入国を禁止した。

長崎在住の英・蘭人や子女に帰国を命じジャがタラお春たちも、ジャがタラへ追放される。

(6)同年8月17日、ポルトガル船が通商のため来航したが、キリシタン禁圧を理由に拒絶した。

同17年5月、ポルトガル船が再び、長崎に来航、貿易再開を求めたが、

奉行は使節以下61名を西坂の刑場で斬罪に処し、13名は放還帰国させた。

(7)同18年6月、平戸蘭商館の出島への移転を命じ、蘭貿易は長崎一港に限定された。

(8)同年、唐船の口銭分配の法を定めた(一船宿主口銭を銀三貫目に限り、

その余は長崎の町内に配分した)。

(9)同18年2月8日、沖の両番所を設けた

(幕府は外国船の来航に備え、西泊と戸町の両番所に常時1000人の兵士を駐屯させた)。

(10)同19年、市中に散在の遊女屋をまとめて、丸山町・寄合町を開き、遊郭とした。

(11)正保元年(1644)在留唐人の禁教を監視の為、キリシタン目付(唐人)を置く。

(12)同年、南蛮船の来航緊急情報の連絡機関として、

近国各藩は蔵屋敷を長崎に設け、「聞役」をおいた。

(13)同年冬諏訪神社(現在、松森神社の地)境内は手狭の為玉園山

(現在地)に運営(4年後)。

(14)慶安3年(1650)1月、蘭甲比丹は、本国使節フレイシュスと共に参府した。

慶安元年(1648)の拝賀拒否の事件は元に復され、拝賀の為参府。

寛永20年(1643)、漂流蘭人を厚遇された謝礼も共に受けられる。

(15)同4年2月に、油屋町〜本石灰町にまたがる玉帯橋

を架ける(これは眼鏡橋、大手橋に次ぐ古い石橋)。

13代長崎奉行 大河内善兵衛正勝

天正6年ー寛永17年(1578-1640)、(第5次鎖国令)平戸・

長崎の追放英蘭人妻子収容のプレダ号が平戸を出港、この時ジャガタラお春は、

ジャガタラへ送られた。


14代長崎奉行 柘植平右衛門正時

寛永17年9月25日、大目付井上筑後守、

長崎奉行・柘植平右衛門と平戸へ行き蘭館の閉鎖破壊を命じた。

カロンは直ちに、碇泊中の蘭船乗組員200人を指揮して、

倉庫の貨物を他に移し破壊に着手した。


15代長崎奉行 山崎権八朗正信

(1)正保4年6月24日、ポルトガル人とスペインの分離をマカヲから知らせに来た

使節ゴンサロ・デ・シーケイラのポルトガル船二艘は、長崎に入港して通商を求めた。

幕府は伊予松山城主他細川藩をはじめ九州諸大名に命じて

、男神から女神までの港口を封鎖し、兵数5万余、1500艘で固めたという。

(2)同年7月13日、大目付・井上政重と長崎奉行・山崎権八朗は江戸を発し、

同28日長崎へ到着し、ポルトガル使節に通商を許可せず来航の厳禁を通告した。

8月6日、ポルトガル船2隻は出港する。

16代長崎奉行 黒川與兵衛正直

(1)明暦2年5月17日、シャム船が長崎に入港した。幕府は、

邦人の外国渡航禁止の事を告げて退去させる。

(2)同3年11月15日、大村領でキリスト教徒600人余を逮捕した。

吟味の結果、411人が斬罪と決まる(世に言う郡崩れである)

(3)寛文元年(1661)、この年、蘭船は、洋上で唐船を掠奪したことが発覚したので、

蘭船に銀270貫を賠償させる。

(4)この年には、出島内に伊万里磁器店を設け、併せて諸品を陳列売買させる。

これをラクバザールという(出島内、邦人の店はこれ一軒で、

蘭人が島外に出る事が許されないのでその為につくられた)。

(5)萬治元年(1658)、黒川與兵衛は、自費で松森天満宮の社殿を造った。


 

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