長崎の歴史 奉行編
No2


日付:2月2日

25代長崎奉行 川口攝津守宗恒

(1)天和元年(1681)、この年、異常気象で、飢饉の為米穀は窮迫・餓死者多く正月以来3000人を数えた。奉行所は、

官米500俵を供出、難民に貸与した。(2)貞享2年(1685)正月、貞享令(定高貿易法)を発令した。清朝の鄭氏降伏により、

中国貿易船の長崎来航が一時に増え、その輸入額も前年の四倍に跳ね上がった。幕府は貿易高の制限を、中国船は毎年

銀6000貫、蘭船は毎年銀3000貫と定めた。(3)貞享元年(1684)、糸割符制の復活、諸色の相対貿易も認めた。理由は

先の市法売買を廃止し、糸割符制の復活により、ぜいたく品の輸入や長崎奉行以下
諸役人の綱紀の弛緩となった弊害を

除き、貿易額を制限する事で金銀の流失を防いだ。(4)貞享2年(1685)8月、奉行は密売を防ぐ為唐人倉庫を封印した。

(5)同4年(1687)、この年から奉行三人制となった。二人在勤、一人在府、また、与力・同心制を廃止、奉行控えの給人が

下役となった。(6)元禄2年(1689)4月唐人屋敷完成。(7)同3年(1690)12月、この後、長崎奉行の格式が諸太夫席となり、

宗恒は従五位下摂津守で、将軍に拝謁できる有資格者となった。(これが奉行五位に叙する初め)

24代長崎奉行 岡野孫九郎貞明

(1)延宝元年5月25日英船リターン号が入港し、通商貿易を願ったが、幕府は中国とオランダ二国のみの貿易が幕府の方針、

と伝えて許可しなかった。同26日に英船は出港した。(2)同3年長崎5箇所会所は、はじめ本博多町に在ったが、

延宝3年(1675)、八百屋町に移り、市法会所と改めた。

日付:1月28日

23代長崎奉行 牛込忠左衛門勝登(かつなり)

(1)寛文11年(1671)、新に市法貨物仕法を制定する。(2)同12年(1672)、長崎の市街を80町とした。

(3)同12年4月奉行は島原・天草を巡視した。(4)同11年(1671)、就任と同時に、奉行所が接近して
二箇所に分かれていたのを外浦町(西役所)と立山役所に離して設置する事にした。

(5)延宝元年(1673)、立山役所を現在の立山町に移転設置した。

(6)水樋造成の功により本五島町の乙名倉田氏に「水樋掛」の世襲を許し、年銀二貫目を支給。

(7)同2年(1674)蘭船の運んで来た大馬を献上した。(8)同年、奉行、野母、樺島で捕鯨状況を検分した。

(9)同4年1月長崎代官末次平蔵茂朝を逮捕、財産没収。(10)同年、聖堂を立山に再興した(正保4年・1647、
向井元升が東上町に建立したが寛文3年・1663に焼失した)。(11)同年、外町の宅地を検べた。

(12)同4年(1676)3月、島原侯と各所を巡視、深堀領主鍋島志摩の鹿狩に参加。

(13)奉行が江戸へ出立するに際し、その度毎に商人たちの見送りの風習を禁じた。(14)同6年(1678)2月、野母
樺島、4月川原村に行き池を検分した。

(15)この奉行は、文学を好み、南部草壽(長崎聖堂教官)や彭城東閣(大通事)、
林道栄(大通事・書家)らと深く交わり学問、詩学に秀でた。

日付:1月26日

22代長崎奉行 河野権右衛門通定(みちさだ)

(1)寛文6年(1666)、市中の蓄犬を離れ島に放した。(2)この年になり、唐船の差宿を廃止して、宿町に宿泊するよう改める
(3)同7年11月30日、朝鮮に武器を密売した伊藤小左衛門吉直ら他2名は水の浦で磔の刑に処せられた。(4)同9年
(1669)、本古川町萩原祐佐の鋳造により、踏み絵青銅20枚を長崎奉行所に納入する。(5)同年、最近20年間に唐・蘭へ
輸出した銀高を幕府の命により調査した所、60万貫目に及び、1年平均、3万貫にも及ぶ事が判明した。輸入価格の
引き下げは、銀の流出防止のために必要であった。(6)同10年(1670)、船で島原、天草を巡視する。(7)この奉行は
性質勤倹、清廉であり、平素より役所内の吏員に配慮し、吏員の補欠を要する際は数名を具申し、その内容に就いては、
平素の品行、才学探し尋ねて自分で決定採用した。また在勤中、唐・蘭船の八朔銀を辞退したことにより500石を加増された。

日付:1月25日

21代長崎奉行 松平甚三郎隆見

(1)寛文7年(1667)、蘭船の銀貨を輸出するのを止め金貨に換えさせる。(2)同8年(1668)、この年幕府は貿易品の
騰貴をおさえるため、唐船荷物のセリ買いをしないよう、町年寄を通じて触れさせた。


20代長崎奉行 稲生七郎右衛門正倫(まさとも)

(1)寛文5年8月12日、奉行所は「時の鐘」を鋳造して島原町内に「報時所」を建てた。のち豊後町に移り「鐘の辻」と
呼ばれるようになった(2)同年、奉行所の与力5名を10名に、同心20名を30名に増員、町の治安に備えた。

日付:1月24日

19代長崎奉行 嶋田久太郎守政

(1)寛文3年3月8日、筑後町から出火して市外の大半を焼失(寛文の大火という)。奉行所は、市民に銀・米などを貸与した。
(2)同年、寛文の大火で大災害となったので、長崎市街の区画が整理され道路を通り筋4間(7.2米)、脇町3間(5.4米)、
溝幅1尺5寸4(45
糎)と定めた。(3)奉行所を東・西に再築した。(4)同4年、はじめて、蘭人に金貨の輸出を許した。

18代長崎奉行 妻木彦右衛門頼熊(よりくま)

寛文元年(1661)1月15日、蘭カピタンは長崎を発して参府(これまでカピタン一行は毎年冬長崎を出発、正月幕府に拝賀
したが江戸は冬火事が多く羅災する事再三に及んだので、この年から正月に長崎を発し、2月中旬江戸に着くようにした)。
文化7年(1810)からは2月20日前後を以って長崎発とした。


日付:1月23日

17代長崎奉行 甲斐庄喜右衛門正述

(1)承応2年(1653)、幕府は平戸松浦肥前守に命じて長崎港内外に砲台を築かせた(港内は太田尾、女神、神埼、港外は白崎
高鉾、長刀岩、陰の尾の7箇所。これを古台場という)。(2)同3年(1654)悟真寺を蘭人の埋葬地と定める。
(3)明暦元年(1655)この年糸割符商法をやめ唐蘭輸入品の全部を相対売買とした(従来、唐・蘭船から5箇所商人を通じて
買い取った生糸は国内に販売されたが5箇所商人たちの独占的な一括購入であったのが、承応3年ころから、
中国船は少数しか入港せず、糸価は昨年決定の2倍以上にも上昇したので、50年間続いた糸割符を廃止してすべての
輸入品を自由に取引させる貿易となった)。(4)万治2年(1659)、遠見番を置き、新しく番人10人召抱えた。(5)同年、飢饉の為、
幕府は九州公領の米1万7000石を長崎に回漕して町民に貸与した。(6)同年7月15日、長崎奉行甲斐庄喜右衛門は、
大村因幡守に対し、新規の寺を建立するに際して、法華宗に偏らないよう通告した。


日付:1月21日

16代長崎奉行 黒川與兵衛正直

(1)明暦2年5月17日、シャム船が長崎に入港した。幕府は、邦人の外国渡航禁止の事を告げて退去させる。
(2)同3年11月15日、大村領でキリスト教徒600人余を逮捕した。吟味の結果、411人が斬罪と決まる(世に言う郡崩れである)
(3)寛文元年(1661)、この年、蘭船
は、洋上で唐船を掠奪したことが発覚したので、蘭船に銀270貫を賠償させる。
(4)この年には、出島内に伊万里磁器店を設け、併せて諸品を陳列売買させる。これをラクバザールという(出島内、邦人の
店はこれ一軒で、蘭人が島外に出る事が許されないのでその為につくられた)。
(5)萬治元年(1658)、黒川與兵衛は、自費で松森天満宮の社殿を造った。


日付:1月19日

15代長崎奉行 山崎権八朗正信

(1)正保4年6月24日、ポルトガル人とスペインの分離をマカヲから知らせに来た使節ゴンサロ・デ・シーケイラの
ポルトガル船二艘は、長崎に入港して通商を求めた。幕府は伊予松山城主他細川藩をはじめ九州諸大名に命じて
、男神から女神までの港口を封鎖し、兵数5万余、1500艘で固めたという。
(2)同年7月13日、大目付・井上政重と長崎奉行・山崎権八朗は江戸を発し、同28日長崎へ到着し、ポルトガル使節に
通商を許可せず来航の厳禁を通告した。8月6日、ポルトガル船2隻は出港する。


14代長崎奉行 柘植平右衛門正時

寛永17年9月25日、大目付井上筑後守、長崎奉行・柘植平右衛門と平戸へ行き蘭館の閉鎖破壊を命じた。
カロンは直ちに、碇泊中の蘭船乗組員200人を指揮して、倉庫の貨物を他に移し破壊に着手した。


13代長崎奉行 大河内善兵衛正勝

天正6年ー寛永17年(1578-1640)、(第5次鎖国令)平戸・長崎の追放英蘭人妻子収容のプレダ号が平戸を出港、この時
ジャガタラお春は、ジャガタラへ送られた。


日付:1月18日

12代長崎奉行 馬場三郎左衛門利重

(1)寛永13年5月19日、長崎に赴き、第四時鎖国令の沙汰を伝える。(2)同14年12月5日、島原一揆が起こり、江戸から
急行し、12月5日長崎に着き、7日島原に向かい、上使・板倉重昌に属し、細川忠利の軍艦として諸勢を下知した。のち
平定後、直に、長崎に在勤する。(3)同15年11月10日長崎奉行となった。この年、長崎奉行の勤務制度が改正される
(従来の6月に来崎、10月に帰府の制度を改め、毎年二人の奉行が交代で在勤する事に也、与力5人、同心10人を
つけられる事になった。(4)同15年野母村日野山(権現山)に遠見番所を置き、外国船の入港を監視させ、長崎村斧山に
峰火台を設け、番所を置いて2名づつで監視に当たった。(5)同16年7月5日、幕府の第5次鎖国令により、ポルトガル人の
渡来入国を禁止した。長崎在住の英・蘭人や子女に帰国を命じジャがタラお春たちも、ジャがタラへ追放される。
(6)同年8月17日、ポルトガル船が通商のため来航したが、キリシタン禁圧を理由に拒絶した。同17年5月、ポルトガル船が
再び、長崎に来航、貿易再開を求めたが、奉行は使節以下61名を西坂の刑場で斬罪に処し、13名は放還帰国させた。
(7)同18年6月、平戸蘭商館の出島への移転を命じ、蘭貿易は長崎一港に限定された。(8)同年、唐船の口銭分配の法を定めた
(一船宿主口銭を銀三貫目に限り、その余は長崎の町内に配分した)。(9)同18年2月8日、沖の両番所を設けた(幕府は
外国船の来航に備え、西泊と戸町の両番所に常時1000人の兵士を駐屯させた)。(10)同19年、市中に散在の遊女屋をまとめて、
丸山町・寄合町を開き、遊郭とした。(11)正保元年(1644)在留唐人の禁教を監視の為、キリシタン目付(唐人)を置く。
(12)同年、南蛮船の来航緊急情報の連絡機関として、近国各藩は蔵屋敷を長崎に設け、「聞役」をおいた。
(13)同年冬諏訪神社(現在、松森神社の地)境内は手狭の為玉園山(現在地)に運営(4年後)。(14)慶安3年(1650)1月、
蘭甲比丹は、本国使節フレイシュスと共に参府した。慶安元年(1648)の拝賀拒否の事件は元に復され、拝賀の為参府。
寛永20年(1643)、漂流蘭人を厚遇された謝礼も共に受けられる。(15)同4年2月に、油屋町〜本石灰町にまたがる玉帯橋
を架ける(こ
れは眼鏡橋、大手橋に次ぐ古い石橋)。

日付:1月16日

九代長崎奉行 榊原飛騨守職直(もとなお)

天正十四年ー慶安元年(1586-1648)寛永十一年(1634)五月十八日、長崎奉行(着年月日不詳)。
同十四年(1637)十月、天草・島原のキリスト教徒及び農民ら乱を起こし、奉行在任中の職直は、江戸から十二月五日、
長崎着、7日、鍋島勝茂の軍艦として島原に赴く。同十五年(1638)正月二十九日、免職・閉門
(島原の乱の節軍令に違反した罪により父子共に処分)・二年後、ゆるされ後御先鉄砲の頭・水口城番(近江國)。
墓所は感応寺(東京都谷中六丁目)。行年63歳。〔事績〕(1)寛永11年(1634)9月、初めて諏訪神社の大祭を行い、
神輿が大波止のお旅所に渡る。(2)同12年正月、唐船の貿易を長崎一港に限り、他港に来航する事を禁じた。
(3)同13年5月、出島を築き、ポルトガル人の市中散宿を禁止して出島一箇所に収容した。
(4)この年、長崎出生のポルトガルとの混血男女287名をマカヲに追放した。総じて、職直、在任中の鎖国政策は
手際よく進捗した。