長崎の歴史 奉行編
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                                    長崎事典 歴史編

 (1)奉行の職責

   名前:崎陽店主    日付:12月30日(土) 10時53分

江戸時代の長崎奉行は、貿易、外交が最も重要な職務であった。

唐蘭貿易を監督すると同時に諸外国の動勢を探って万一の異変に備え、

一朝事ある時は将軍の名のもとに諸侯に号令する権限を与えられてた。

いわば、奉行は行政、警察及び裁判事務はもとより、外国との貿易、

長崎の防備に至るまでの行政、司法、軍事全般を掌握していた。


  (2)奉行の定員と勤番

   名前:崎陽店主    日付:12月30日(土) 10時53分

  (一)長崎奉行は文禄元年(1592)に設置されてから、

寛永十年(1633)までは一名であった。もっとも、

初代寺沢志摩守は唐津城主であったから、家臣を長崎に派遣して政務を委せた。

これは例外として、他の奉行は、当時は南蛮船の入港が毎年六月か七月ごろで、

帰帆は九月おそくとも十月中旬を越えることはなかったので、

その入港に先立ち着崎し、又、外国船の帰帆後に江戸に帰った。

(二)寛永十一年(1634)から貞享三年(1686)までは奉行は二名となった。

うち一人は在崎し、(たいてい、毎年九月に交代)一人は江戸にいた。

立山屋敷造営後は、新たに到着の奉行は西役所に入り、

江戸へ帰る奉行が出発したあとに立山役所に移転した。
 名前:崎陽店主    日付:1月3日

十)元治元年(1864)総奉行を廃止した。 

(十一)慶応元年(1865)長崎奉行並を置く。 

(十二)明治元年(1868)正月、長崎奉行河津伊豆守は東上。

奉行職は自然消滅となり、徳川幕府の長崎奉行所は門を閉じた。

この間、長崎奉行の来任する者、総員百二十五名であった。

   名前:崎陽店主    日付:12月31日

(三)貞享四年(1687)から元禄十二年(1699)までは奉行は三名となった。

二人在崎し、一人は江戸にいた。

従来、二人の時は、立山、西の両役所で事が足りたが、三名となってからは、

新奉行として下向する奉行の居宅がないので今年、

江戸へ帰る奉行は下向してくる新奉行の江戸出発、当地到着の日時を計算して、

その間に安禅寺に引越して、

その到着をまった。到着してきた新奉行は所定の役所に入り、

安禅寺にいた奉行は江戸へ出発した。一名は必ず越年し、

明年になって、この年出発してくる者と交代するのであった。

(四)元禄十三年(1700)から正徳二年(1712)まで奉行は四名となり、

二人在勤、二人江戸在府とした、そのころ、益々、

唐、蘭船の入港が多くなり長崎貿易は盛大になったので奉行の定数も増加した。

(五)正徳三年(1713)奉行三名。 (六)同四年(1714)、又減じて二名。 

(七)天保十四年(1843)奉行一名

(八)弘化三年(1846)又二名となった 

(九)文久三年(1863)開国・鎖国の輪が国内に広まり人心動揺、

長崎は土地柄からして、殊に激しかったので幕府は二名の

奉行の上に、大村丹波守を長崎総奉行として置く事とし、

外国船の入港の警備を厳重にした。


  
奉行の身分


   名前:崎陽店主    日付:1月13日

長崎奉行設置の頃は、國持城主が任用されたこともあったが、のち、

二代から五代までは300俵の小身の士が奉行職を勤めた。

やがてキリシタン事件の勃発で300石の旗本を登用したが叙位の沙汰はなかった。

万治元年(1658)諏訪社宮司を正六位下に叙せられたため、

近國諸家との均衡と外交上の関係などもあり、

元禄二年(1689)から奉行の地位を進めて、

格式を諸太夫席とし叙位任官の沙汰が決められるようになった。また、

幕末に近づくにつれ、諸外国との外交問題も多く、

従来の禄高よりも能力主義が重視せられ、

1000石以下の旗本の逸材の登用がみられるようになった。

  奉行の役得

   名前:崎陽店主    日付:1月4日

(一)御調物長崎奉行が私用で買上げた唐・蘭商品で、毎年「御調物」の名目で、

輸入品を原価の五割増で買上げる

特権を与えられていた。その銀額は常例として唐・蘭品、

銀四0貫を以って限度とされていた。

奉行は、この特権により毎年定額の物品を買い入れて京・大阪に送り、

販売せしめて利益を得たとある(銀四十貫は

貿易制限の厳重な時代のことで、その以前には、年100貫余との記録がある)

(二)八朔銀八月朔日は、幕府は年頭と同じような祝いをした住節である。

このひ、長崎では、地役人の上下一同が立山屋敷に伺候し、

祝辞をのべ、礼物をを呈上した。

殊に在留唐・蘭人も同様に祝辞をのべ礼物を差し出した。

その銀額は、地役人全体で約60貫目、唐・蘭人で銀100貫位という記録がある

(もっともその年の入港船舶の数で増減があった)。

寛文六年(1666)このとし、唐船主から奉行におくる八朔礼物を廃止する

(実録大成)ということになり、その後、寛文十二年(1672)から再興と菜手いる。

   名前:崎陽店主    日付:1月14日

  初代長崎奉行 寺沢志摩守広高

永禄六年〜寛永十年(1563〜1633)。祖・紀淑望の子孫は、美濃國に住み、

美濃、尾張に多く居住した。寺沢家はその末流。

広高は寺沢越中守広正(豊太閣に仕える)の総領。別名・正成、諱・広高、

通称・忠次郎、従五位下志摩守、従四位下に昇った。

家禄は十二万石、知行地、肥前の國唐津城主。

筑前の國怡土・肥後の國天草の二郡の内。〔経歴〕尾張の国に生まれ、

豊太閣に仕える。文禄元年(1592)、初代の長崎奉行となり、国元の唐津にいて、

重臣を長崎に派遣して事務を執らせ、時々、

出掛けて政務を執った。慶長七年(1602)、退職の後、

秀忠に従い大阪の役に出陣。元和元年(1615)、はじめて、

家康に渇した。墓所は不詳。行年71歳。

〔事績〕(1)文禄元年(1592)奉行所を本博多町に設置。(2)慶長七年(1602)、

長崎在住の中国商人たちの菩提寺を、稲佐悟真寺とした。

(3)慶長元年(1595・2・5)12月19日、長崎の西坂で、フランシスコ会

神父他25名のキリスト教徒を磔刑にした。
 三代長崎奉行 
長谷川左兵衛藤広(はせがわさひょうえふじひろ)


   元和三年(1566-1617)

小笠原一庵為宗(おがさわらいちあんためむね)

   日付:1月15日

生没年出身共に不詳。慶長七年(1602)2代長崎奉行となる(翌年四月着任)。

同十年(1605)、佐渡奉行に転出。

〔長崎奉行歴代略譜〕によれば、

慶長十二年(1607)遠島となる(貿易の不正に関連したため)。

〔事績〕(1)慶長九年(1604)、いと割符の制を実施。(2)目付・唐通事を置く。

(3)一向宗道智の正覚寺創立を許可する。

(4)慶長十年(1605)、大村領長崎村が公領となり、浦上村と交換され、

長崎純景は筑後の田中家に仕えた。
四代長崎奉行 長谷川権六朗守直

   宗門人別長をつくる

五代長崎奉行 水野河内守守信

    キリシタン迫害、雲仙地獄の熱湯責めをおこなった。
六代長崎奉行 竹中采女正重興

    盂蘭盆会を執行させる。
  

七代長崎奉行 曽我又左衛門古祐(ひさすけ)

   天正十三年ー万治元年(1585-1658)

八代長崎奉行 今村伝四郎正長

    
天正十五年ー承応二年(1587-1653)


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