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 蓬莱園焼火入 心月公作


〜鎮真流の茶苑〜

『蓬莱園』

平戸藩松浦家28代隆信公は徳川家光より浅草柳原の地を賜わる。

この地に池庭を築き「向東庵」を営む。

江月宗玩や小堀遠州と謀り寛永9年頃完成したと思われる。

まもなく神田の本邸が火事に遭い、ここを上屋敷とする。

29代 鎮真(天祥公)は流祖となられるほどの茶人で、

この「向東庵」にもいろいろと手を入れられたようだ。

〜南岸に石と畳み城壁に見立て〜

〜小道に石瓦を並べ塁上には小亭を築く〜

〜石畳の隅には石燈を置く〜

〜石亀を平戸の方角に配置す〜

平戸の亀岡城に馳せる思いからの配置のようだ。

茶室も建てたであろうが明らかではない。



 
蓋表書き 蓬莱園焼き

 蓋裏 雲堂茶碗の形を模す

径 10cm  高さ 9cm

写真タッチ



代は移り34代 清(静山公)も茶道に造詣が深かったようだ。

ここに「三心亭」と称する茶室を設ける。


35代 熈(観中公)は「向東庵」を『蓬莱園』と称することにした。

平戸城内に「知命室」という茶室を設ける。

平戸の梅谷津に偕楽園をつくり、「清透庵」という茶室を建てる。

平戸での茶道の」振興に努めた人である。



37代 詮(心月公)は大名茶の茶室を

どの家元にも及ばないほどに整備した人です。

「能く心を茶事に用いる」人で、年に百会の茶会を催したと言われる。

東久世伯爵、久松老伯爵、石黒男爵らと『和敬会』を結成。

『蓬莱園』に整備を加え茶室を建立している。

明治13年から41年にわたる29年間に実に

数千人の客が招かれたと言われる。



その茶会の会記に記された茶室の名が残っている。

 第1席 心月庵 三畳台目

第2席 如何屋 長四畳

 第3席 無物洞 三畳中板

第4席 皎潔軒 六畳  

第5席 茅屋       

 第6席 松の間 十畳   

 第7席 風月楼 二十五畳

 第8席 棗の屋 三畳   

 第9席 竹亭  四畳半  

 同 席 珍竹窩 一畳台目

 第10席 詠帰亭 六畳半 

 第11席 詠帰亭茶室 三畳

三畳ほどの草庵茶室を中心に、一畳半の侘びの茶室、

広間、野趣に富んだであろう茶屋から構成されている。





「心月庵」は草庵風の茶室で、有栖川宮熾仁親王の揮毫の額が掲げられ、

片桐石州遺愛の石燈籠や細川三斎愛玩の水鉢が配された。

後に益田香遠は、茶会の施設として千家の家元を凌ぐものだと絶賛している。

なお、「心月庵」は平戸城内に建てられていたもので、

こちらの間取りなどは不明。

『蓬莱園』の「心月庵」は40代 素(祥月公)が巣鴨の別邸に新たに造営し、

当代 章(宏月公)の居住する藤沢に移築現存している。


『閑雲亭』

平戸の松浦資料博物館は廃藩後の藩主松浦氏の邸宅で、

鶴ヶ峯邸と称され、明治26年に心月公によって建てられた。

湾を望む高台に位置し、城郭を思わせるような石垣を築いている。

屋敷の西側、背後に山を前方に低い築地塀を越え海が見渡せる場所に

茶室「閑雲亭」は建てられている。

寄棟造りの茅葺屋根を自然木の柱で支えた素朴な佇まいである。

昭和62年の台風で倒壊したが翌年には復元された。

野趣に満ちた室内で、茶室の通型に捉われない

自由な空間に自然の素材を奔放に駆使し、

一方茶室として備えるべき要素をきちんと配置されている。

おおらかで長閑〜鎮真流の茶の特色のようだ。

心月公の豊かな茶の境地が、

平戸の邸内にふさわしいあり方を創ったのであろう。



『静寧亭』

日本女子大学で茶道を教授していた松浦詮(心月公)が、

明治37年に同大学に寄贈した茶室である。

当初は現成瀬記念館付近に建てられたが、

その後昭和38年に桜楓館南側の現地に移築された。

四畳敷枡床付の茶室と六畳敷の座敷、

板の間の水屋からなる間取りで、

切妻造り鉄板葺の簡素な佇まいの外観である。

開放的なつくりは閑雲亭に通ずる。

初期の学校茶道の道場として貴重な遺構である。

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