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幕末期 長崎で活躍した人物 
     


                『松本良順』

     (1)

     松本良順はポンペとともに長崎大学医学部の創設者である。

     良順は佐倉順天堂の始祖、蘭医佐藤泰然の次男として生まれ、蘭医学を学んだ。

     泰然と親しかった幕府寄合医師松本良甫は良順を養継として迎えた。

     第二次海軍伝習にオランダは軍医を派遣することを聞いた良順は、

     第一次海軍伝習の伝習所総督を勤めた永井尚志を説得し、伝習生附御用医として長崎にきた。

     1857年(安政四年)、カッテンディケを隊長とする。
     
     第二次海軍伝習の派遣教官団37名が、ヤパン号で来航した。

     咸臨丸(もともとの名前はヤパン号)は幕府がオランダに頼んで造ってもらった船で 

     勝海舟は第一次海軍伝習で中心的役割を果たした。

     現在長崎県庁の敷地になっている1西役所の一室で、松本良順とその弟子達12名に、

     ポンペが最初の講義を行なったその日を長崎大学医学部は創立日としている。

     この日から5年間、ポンペは日夜、彼の持っている知識のすべてを生徒たちに系統立てて伝え、

     13000人以上の人々の診療治療にあたった。


    (2)

     ポンペの医学校建設の志に共鳴した良順はまず医学伝習を海軍伝習から独立させるよう努力した。

     そのころ蘭医学は禁じられていたので、他藩からの医師は良順の弟子ということにして

     ポンペの講義を受けることができるように取り計らった。

     1857年11月12日ポンペは西役所の一室で(現在の長崎県庁)

     松本良順とその弟子達12名に最初の講義を行なった、その日が長崎大学医学部の創立日である。

     ポンペは、この日から五年間、生徒たちを、熱心に教育した、また診察治療は1万3千人以上になる。
 
     次第に多くの医師が集まり手狭となった西役所の一室から、大村町の元高島秋帆宅に移った時、

       良順は病院を付置した医学校建設を決意した。

       (後の長崎大学と付属病院である)

                                     



     (3)

     長崎奉行岡部駿河守長常はポンペと良順に好意的で

     医学校建設に助力を惜しまなかった。

     1859年井伊大老から突然オランダ人海軍伝習教官の帰国命令が出されたとき、

     良順は岡部駿河守と共に医学伝習の存続に骨を折り、ポンペは残留した。

     1860年ロシア兵の長崎寄港の際、遊女の梅毒検査を実施した。

     1861年9月養生所が完成、良順はその頭取となった。

     1857年11月、ポンペによる開講で医学伝習所は市内外浦町に所在したが、年内に大村町に移転。

     医学伝習所の後身たる養生所・医学所は小島郷字稲荷岳に 開設され、

        「小島養生所」と称された。

     この小島校地は精得館・医学校へと継承され、第五高等中学校時代まで存続した。

       「養生所建設には大変な苦労があった?」


     (4)

     幕府に良順とポンペが願いをしていた(小島養生所)の建設許可が下りた。

     当時の大老・井伊直弼が良順たちの要望を受け入れ許可と予算をつけた。

     井伊直弼は、開国派の中心的な人物であった。良順たちの理解者・井伊直弼。

     安政7年(万延元年)3月3日、雪の桜田門外で暗殺。


          「医学は長崎から」

     浦上にある長崎大学医学部に行くと。キュンストレーキや良順の資料、

    解体新書や人体解剖図の本、永井隆先生の直筆報告書、などがあるそうです。


          ポンペは(1829年 - 1908年)は、オランダ海軍の軍医。

    ユトレヒト大学で医学を学び軍医となった。

    幕末に来日し、オランダ医学を伝え、1862年に63名に卒業証書を渡し帰国した。



    (5)

    ポンペのもとで学んだ松本良順、司馬凌海、岩佐純、長与専斎。

    日本での滞在期間は安政4年(1857年)〜文久2年(1862年)までの5年間。

    1863年良順は江戸に帰り、西洋医学所頭取となった。

    良順は医学校で兵書を読む学生が多いのに憤慨

    医学書のみを読むべしと兵書と文法書講読の禁令を出した。

    煮えたぎる擁夷熱に冒された医学生のごうごうたる非難を受けたという。

    前頭取の緒方洪庵の学風は蘭学を広い分野に応用することを認め、

    大村益次郎、福沢諭吉のような多彩な人々が輩出したが、

    良順そして順天堂の学風は医業専一であって、佐藤尚中、関寛斎のような医人が育った。 


                                     



     (6)

                   ポンペの教え子  「長與 專齋」

    肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に代々仕える漢方医の家系に生まれる。

    大村藩の藩校である五教館(長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ後、安政元年(1854年)、

    大坂にて緒方洪庵の適塾に入門、やがて塾頭となる(福澤諭吉の後任)。のち大村藩の侍医となった。

    文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。

    その後、ポンペの後任マンフェルトに師事医学教育近代化の必要性を諭される。明治元年(1868年)

    長崎精得館の医師頭取(病院長)に就任。明治4年(1871年)、岩倉遣欧使節団の一員として渡欧し
    
    ドイツやオランダの医学及び衛生行政を視察
 
    明治6年(1873年)に帰国、明治7年(1874年)文部省医務局長に就任。

    また東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務、明治8年(1875年)、医務局が内務省に移管される

    衛生局と改称して、初代局長に就任、コレラなど伝染病の流行に対して衛生工事を推進し

    衛生思想の普及に尽力。



    (7)

    「衛生」の語は、Hygieneの訳語として長与が採用したものである、明治24年(1891年)に衛生局長を退いて

    後も、元老院議官、貴族院議員、宮中顧問官、中央衛生会長などを歴任。また、石黒忠悳、三宅秀、

    佐野常民らと大日本私立衛生会宮中顧問官、中央衛生会長などを歴任。

    また、石黒忠悳、三宅秀、佐野常民らと大日本私立衛生会

    (のち日本衛生会、現日本公衆衛生協会)を興し会頭に就任。医学界及び衛生行政に重きをなした。

    1866年幕府軍は長州征伐で敗退した、この時良順は大阪城で病む将軍家茂公を治療しその臨終を見取った。

    幕府の海陸軍軍医制を編成し、総取締になり、戊辰戦争では会津城内に野戦病院を開設した。

    明治4年山県有朋の請いにより陸軍軍医部を編成し、1871年初代軍医総監となった。

    牛乳を飲むことと海水浴をすることを日本に定着させた。

    1911年に76歳で没した。

                                     

    (8)

                  ポンペの教え子  「司馬 凌海」 幕末〜明治初期の蘭方医。

    天保10年11月28日(1840)‐明治12年(1879)(新潟県佐渡市)生まれ、諱は盈之(みつゆき)、凌海は通称。

    本名は島倉亥之助1850年(嘉永3年)江戸に出、のち下総国佐倉の順天堂で蘭学を学ぶ。

    57年(安政4年)松本良順に従って長崎にいき、ポンペから医学を学んで、帰郷して開業後

    68年(明治元年)東京に出て医学校三等教授となり、のち少博士、兵部省病院、

    文部省・宮内省五等出仕などを歴任し、75年退官。

    東京下谷練塀町で日本初のドイツ語塾春風社を開く。


    (9)

    語学の天才で通じない外国語はないといわれた、独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じていた。

    特に松本順、ポンペ・ファン・メーデルフォールトに師事していたことから、

    医学用語の日本語訳を多く作っている。

    安政4年(1857年)18歳で、師の松本良順と長崎へ行き、オランダ軍医ポンペ・ファン・メーデルフォールトに学ぶ。

    文久元年(1861年)、ポンペに破門される 、文久2年(1862年)、「七新薬」を著し、尚新堂から刊行。

    肥前国松浦郡平戸で平戸藩医師・岡口等伝の娘の婿になる、子が生まれる(長男・司馬亨太郎)

    祖父伊衛門により佐渡に連れ戻される 横浜に出る 、江戸の下谷練塀町で私塾「春風社」を開く。


     (10)

           教え子に生田秀(ビール醸造)、清水郁太郎(医学者、東京大学教授)

    明治元年(1868年)、医学校(現・東京大学医学部)三等教授。  明治3年(1870年)3月、少博士・正七位、

    明治3年(1870年)7月、少助教   明治5年(1872年)1月、大学大助教 後に文部大教授

    明治5年(1872年)、日本最初のドイツ語辞典「和訳独逸辞典」を出版、

    「孛和袖珍字書」という辞典も同時期に出ている。

    

         日本初というのは辞典、辞書の定義によると思われる。

    明治8年(1875年)5月、元老院少書記官 、明治8年(1875年)12月に辞職、

    明治9年(1876年)公立医学所(後に愛知医学校、愛知県立医学校と改称)

    (現・名古屋大学医学部)教授 教え子に後藤新平 、明治10年名古屋で開業

    明治12年(1879年)3月11日に肺結核で死去。享年39。


    (11)

         著書 [編集]

    七新薬 (司馬凌海 著、関寛斎 校)

    和訳独逸辞典(日本最初のドイツ語辞典)

    独逸文典字類 (明治4年)

    ドイツ語はドイツ草書体で表記していて、品詞も記載されている。

    アルファベット順(ドイツ語)で記載。

    朋百氏薬論 (訳、明治2年) ポンペの薬物学講義を翻刻したもの

    薬物学(別題「百氏薬性論」)


                                     

     (12)

            ポンペの教え子  「岩佐純」   天保7.5.1(1836.6.14)〜明治45.1.5(1912)

    明治時代の医学者。近代日本医学の学制を築いた。

    越前国(福井県)元三上町の医師玄珪の長子。幼名又玄、坪井信良,坪井芳州,佐藤尚 中らに医学を学ぶ。

    また長崎に遊学しポンペに師事,万延1(1860)年福井藩主の執匙侍医となる。

    元治1(1864)年再度 長崎でボードインより医学の伝習を受ける。

    明治2(1869)年医学校創立取調御用掛となり,

    相良知安と共に医学教育制度の範をドイツにすることを力説し,実現する。

    次いで学校権判事,文部大丞,宮内省大侍医,宮中顧問官に累進。

    高等官1等になり男爵を授けられる。墓所は東京都品川区の天竜寺。


    (13)

          <著作>『急性病類集』

    明治六年、東京府立病院の設置に伴い、岩佐純がその初代院長に就任した

    大学東校にあって、岩佐純、相良知安などとその基礎を作る。

    相良知安、岩佐純等は医科大学の創立・学制創定の困難を極め
 
    医道取調御用掛として相良知安はドイツ医学輸入をフルベッキと会談。

    (筆者の考えでは当時のドイツの医療技術学問は世界一である)



                                       



     (14)

        『緒方洪庵』   文化7年(1810)−文久3年(1863)

            江戸後期の蘭医、教育者

    名は章、字は公裁、初め三平と称し、のち、洪庵と改めた。

    備中足守藩士・惟因の末子。

    父に従い、大坂の藩邸に赴き16歳で中天遊について蘭方医学を学んだ。

    21歳のとき、江戸へ出て坪井信道、宇田川玄真らに蘭学を学び、
 
    天保7年(1836)からは同9年まで長崎で蘭学を学んだ。

    同年大坂に帰り開業、患者が多く、また、その塾に学ぶもの1000人に及んだという。

    適塾と称し約25年にわたって、有能な多くの若者を教育した。

    門人のなかには大村益次郎、福沢諭吉、長与専斎、佐野常民らがいる。

    文久2年(1862)幕府奥医師兼西洋医学頭取となった。

    ローゼの生理学書「人身窮理小解」を翻訳して出版し、その他、

    日本最初の病理学を編集内科の書として広く読まれた、

    その他多くの翻訳をした。嘉永2年(1849)種痘の普及に大いに尽くした。



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