幕末期 長崎で活躍した人物 |
「福沢諭吉」
(1) 天保6年(1835)明治34年(1901)明治維新前後に活躍した啓蒙思想家。 豊前中津藩士福沢百助の末子。安政元年(1854)21歳の時、長崎へ留学、翌年、大坂へ赴き、 緒方洪庵の適塾で蘭学に励み塾頭となり、帰国後、幕府の翻訳方に雇われた。 安政7年には幕府使節と共に渡欧。 (2) 万延元年(1860)福澤は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行木村摂津守の従者として渡米。 この時、咸臨丸の指揮官は勝海舟であった。福澤は、日本人の手による、 咸臨丸による、太平洋横断した事は、世界に誇る名誉である。 福澤と勝海舟はあまり仲が良くなかったようである。 木村摂津守とは明治維新によって木村が役職を退いた後、晩年まで交際を続けている。 (3) 慶応3年(1867)再び渡米した。 安政5年(1858)に江戸の中津藩邸で開校した蘭学塾を、3度目の外遊後、 文久2年(1862年)には香港、シンガポール、インド洋、紅海、地中海ルートで マルセイユに上陸。リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、 ベルリン、ペテルブルク(サンクトペテルブルク)、リスボンなどを見物した。 |
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(4) 慶応4年(1868)4月に慶応義塾と改め、維新後、 一時は幕臣として幕府機構の改革を唱えた。 明治4年(1871)に三田に移した。塾は発展し、多くの人材を養成して 明治の文化史上に貢献した。 帰国後、『西洋事情』などの著書を通じて啓蒙活動を開始。 「西洋事情」「学問のすすめ」「福翁自伝」などの著がある。 明治15年(1882)「時事新報」をだして、文明開化の指導者である。 (5) 幕府は使節団として竹内下野守を欧州各国へ派遣した。 福澤も同行をして、幕府からの支度金で英書を買い、日本へ持ち帰っている。 ヨーロッパでも土地取引など文化的なことに驚き、書物では分からないような、 ヨーロッパの生活習慣は日本人に判らない事柄である日常について調べた。 たとえば病院や銀行、郵便法、徴兵令、選挙制度、議会制度などについてである。 これら遣外使節団などへの参加経験を通じて、 福澤は日本に洋学の普及が必要であることを痛感する。 帰国後、啓蒙活動を開始。 不偏不党の理念のもと、世論を先導した。 |
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