幕末期 長崎で活躍した人物 
     



 「近藤長次郎」


(1)

近藤 長次郎(こんどう ちょうじろう)

天保9年3月7日(1838) - 慶応2年1月14日(1866)

幕末期の土佐藩出身の人物

名を春宗。

別名は上杉宋次郎、近藤昶次郎、梅花道人。


高知城下の饅頭商人の息子として生まれ

長次郎自身も饅頭を売り歩いていたため、

はじめは名字がなく饅頭屋長次郎と呼ばれた。

(2)

幼少期から聡明で江戸に出て学問と砲術を学び、

その才能を山内容堂に認められて

文久3年(1863)に名字帯刀を許され

神戸海軍操練所に入る。

同じく土佐藩出身である坂本龍馬とは仲が良く、

龍馬と共に海援隊の前身である亀山社中を設立。

また龍馬の命令で長州藩に赴き、小銃の売買成立。

このとき、長次郎は長州藩主の毛利敬親から

謝礼の言葉を直にもらってる。

(3)

その後、長州とはユニオン号の売買を成立させたが

引渡し条件などでもめ、

龍馬の仲介で、謝礼金の授受も出来た。

長次郎は龍馬と同じく狭い日本にいるよりも

世界に羽ばたく国際人になりたかったようだ。

ユニオン号引渡しで長州藩から得た謝礼金を

イギリス商人のトーマス・グラバーに渡し、

イギリスに留学しようとした。




(4)

ところが天候悪化により出港が遅れたため計画は露見

しかも長次郎は密かに亀山社中の資金を横流ししていた。

これらの罪により社中の隊士たちより切腹を言い渡されることになる。

このとき切腹を命じたのは龍馬自身であったという説が一部にあったが、

実は当時、龍馬は薩長同盟締結のため京都に赴いており長崎には不在だった。

長次郎の切腹は、龍馬不在中に社中の隊士が決定したことである。

享年29才であった。

(5)

龍馬の妻であるお龍の回顧録「千里駒後日譚」の中で

長次郎の訃報を聞いた龍馬が

「己が居ったら殺しはせぬのぢゃった」

とその死を悼んでいたという証言を残している。

(6)

葬儀は社中の者であげた。

墓は皓台寺墓地内の幕末期砲術家高島秋帆墓地の裏手(山側)に

ひっそりと建てられていたが、

現在では大浦お慶とともに志士たちを援助した小曾根家の墓地内に移設された。

墓碑には、小曾根邸の離れの屋敷名をとって「梅花書屋氏墓」と記されている。

筆跡は龍馬のものとされている。

龍馬は後に、

「術数有り余って至誠足らず。

上杉氏(長次郎の変名上杉宋次郎のこと)身を亡ぼす所以なり」

と嘆いたという(「坂本龍馬手帖摘要」)。


長崎の小曽根家は、

勝海舟や坂本龍馬などを支援した豪商であり、

ここに亀山社中の事務所も置かれていた。

小曽根邸には「梅花書屋」という離れがあり、

慶応2年(1866)1月、ここで一人の男が自刃しました。

切腹のおり介錯する者がなく、

はみ出した自分の腸を障子に投げつけ、命絶えたと言い伝えられています。

自刃した男の名は「近藤長次郎」。

高知城の餅菓子商「大里屋」伝次の長男で通称は饅頭屋長次郎。

幼少より聡明で、江戸に出て学問や砲術などを学び、文久2年(1862)勝海舟に弟子入り。

龍馬と終生行動を共にして神戸海軍塾入塾、そして亀山社中に在籍していました。

薩摩藩船ユニオン号購入に成功するなど大いに商才を発揮するも、

商談の見返り的な配慮を利用して独断で洋行を決意したことが露見。

この行為が亀山社中内の規律違反となり切腹することに相成りました。

龍馬は同志近藤長次郎の訃報に接し、こう宣いました。

「術数余りありて至誠足らず 上杉氏(近藤長次郎)の身を滅ぼす所以(ゆえん)なり」

少々冷たい言い回しに聞こえますが、龍馬の本心は逆でした。

「己が居ったら殺しはせぬのぢゃった」と、

近藤長次郎の死を誰よりも悲しんだといわれています。

近藤長次郎の遺体は、

当初、長崎・晧台寺の裏山に葬られたましたが、近年に小曽根家墓所に移されたとのこと。




                                       



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