『高嶋秋帆』 寛政10年(1798)〜慶応2年(18669) 江戸時代後期の地役人、砲術家、兵学者。 (1) 長崎町年寄、高嶋四郎兵衛茂紀の三男、同家は代々長崎頭人・町年寄の家柄である。 秋帆は父の没後、天保8年(1837)40歳で11代目の町年寄並びに諸役を引き継いでいる。 天保12年(1841)44歳で諸組与力格、長崎会所調役頭取になる。同年5月9日、 江戸徳丸が原で大砲発射馬上銃射撃の演習をした。 (2) ところが翌天保13年を以て突如、高嶋家は断絶した。 この年10月2日、秋帆及び子の浅五郎ほか10名の者が逮捕された。 秋帆らが江戸送りとなり伝馬町に投獄されたのは14年正月である。 逮捕の容疑は、死罪に値する「謀反」であったが、 弘化3年(1846)まで刑は決まらず、この年7月刑は追放に決まる、 武州岡部候預けになる。理由は、浅五郎の嫁に身分違いの代官の娘をもらった、 と言うのだがこれはこじつけであったろう。 (3) それから6年経った嘉永6年(1853)秋帆(56歳)と浅五郎は釈放された。 10年10月足掛け12年に及ぶ年月が、秋帆並びに日本国にとっても 無駄なことだった。逮捕の本当の理由は、長崎会所幹部同僚と幕府権力の中傷、 弾圧による。秋帆の砲術の志は父、茂紀の影響によるものである。 茂紀は、荻野新流の皆伝で多くの師弟がいた。 |
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