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                  佐賀藩士〜山中一郎(1)  歴史のページへ


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(1)
嘉永元年(1848)〜明治7年(1874)

佐賀の乱の首謀者の一人。

嘉永元年(1848)佐賀城下水ヶ江鷹匠小路に

山中四三郎の長男として生まれる。

幼少時から秀才の誉れ高く、

藩校弘道館では寮監となったほか、

江藤新平や副島種臣にも学び、

江藤の弟子の中では

香月経五郎と並び藤門の双璧と呼ばれた。

また、慶應4年には

佐賀藩が長崎に設立した英学校致遠館に入学

フルベッキ写真にも大隈重信らとともに写っている。

戊辰戦争には参加しておらず、

明治4年に藩命によりドイツ・フランスに留学し

政治・経済を学んだ。

明治6年に帰国

列国の形勢に関する復命書

「海外視察御届」を政府に提出

高い評価を受けた。

明治6年政変により江藤新平が職を辞したため

これに同行し佐賀に戻る。
(2)
林有造等と鹿児島へ赴き西郷の動向を探ったり

長崎で武器の調達にあたった。

佐賀の乱に敗れてからは

佐賀を脱出する江藤に同行し、

鹿児島で村田新八に面会したが協力を得られず、

さらに四国へと逃れたが土佐にて捕えられた。

乱後の裁判にて斬首。

享年27。


 〜辞世の詩〜

  苦学多年業未成 
 
  一朝謀敗死元軽 
 
  二十五年如一夢 
 
  誰使後人継我誠
(3)
〜佐賀の乱(1)〜

佐賀の乱は明治7年(1874)2月に

江藤新平・島義勇らをリーダーとして

佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。

佐賀の役、佐賀戦争とも。

不平士族による初の大規模反乱であったが、

電信の情報力と汽船の輸送力・速度を

活用した政府の素早い対応もあり、

激戦の末に鎮圧された。
(4)
〜佐賀の乱(2)〜

征韓論問題で下野した

前参議江藤新平を擁する中島鼎蔵などの征韓党と、

前侍従・秋田県権令島義勇、

副島義高らを擁する憂国党による

旧佐賀藩士を中心とした反乱であり、

以後続発する士族による乱の発端となった。

乱を率いた江藤と島は

そもそも不平士族をなだめるために

佐賀へ向かったのだが、

政府の強硬な対応もあり決起することになる。
(5)
〜佐賀の乱(3)〜

明治6年2月1日、

憂国党に属する武士が

官金預かり業者である小野組におしかけ、

店員らが逃亡するという事件が起こった。

これは即内務省に電報で通知され、

2月4日、政府は

熊本鎮台司令長官谷干城に佐賀士族の鎮圧を命令。

これが佐賀の乱の始まりです。

しかし、半島への進出の際には

先鋒を務めると主張した征韓党と、

封建制への復帰を主張する反動的な憂国党は

もともと国家観や文明観の異なる党派であり、

主義主張で共闘すべき理由を共有してはいなかった。

そのため両党は司令部も別であり、

協力して行動することは少なかった。

また、戊辰戦争の際に

出羽の戦線で参謀として名をはせた前山清一郎を

中心とする中立党の佐賀士族が政府軍に協力したほか、

武雄領主鍋島茂昌など反乱に同調しないものも多く、

江藤らの目論んだ

「佐賀が決起すれば

 薩摩の西郷など各地の不平士族が続々と後に続くはず」

という考えは藩内ですら実現しなかった。

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