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                  佐賀藩士「山口 尚芳」-2    3-次へ


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明治27年5月、重病に当たり正三位に叙せられる。、

6月12日、死去。56歳。

勲一等瑞宝章を受章。

なお、山口尚芳の屋敷跡は武雄市の花島にあり、

現在は公民館の敷地となっている。

また、公民館の横には、

昭和5年(1930)に地元の有志により建設された記念碑が立っている。

毎年1月、山口尚芳をしのぶ

「範蔵祭(はんぞうさい)」

というのが顕彰碑のそばで行われています。
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〜岩倉使節団(1)〜

明治4年(1871)から約2年間に渡って、

欧米を見て回った岩倉具視をトップとした使節団です。


開国間もない日本のリーダーたちが、

今後の日本をどうすべきか視察して回るなかで、

外交とは互いの利をぶつけ合う場だと学び、

どの国にもその成り立ちに歴史があり現在があることで、

日本の未来をどう創造していくかを考え、

その後の日本をかたちづくる上で

とても意義のあるものであったと思います。

しかし、

 「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉」

と狂歌にも歌われるほど、

当時の人々にとっては不満な事もあったようです。

NHKの番組「その時歴史は動いた」で取り上げられ

岩倉具視と4人の副使の5人が写った写真が何度も出てきて、

副使大久保利通、伊藤博文、木戸孝允の説明はあったものの、

山口尚芳(やまぐちますか)だけは

一度も名前すら読んでもらえなかったそうです。

残念な認識ですね。

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〜岩倉使節団(2)〜

明治4年(1871)11月12日

総勢46名の使節団一行は

18名の随従、43名の留学生らとともに横浜を出航した。

出航時の岩倉使節団団員の平均年齢はおよそ32歳。

最年長の岩倉ですら48歳、

副使の木戸が39歳、

大久保が42歳、

山口が33歳、伊藤は31歳。

使節団そのものが若き獅子たちの一行であった。

元来、この計画は前掲フルベッキが

明治2年に大隈に手渡した遣外使節派遣の建言書

「ブリーフ・スケッチ」がもとになっている。

当初は大隈が発議し、

彼自身が使節の任に当たる企てであった。

しかし、結果的に彼は日本に留まり

「留守政府」の大任を負わされた。 

岩倉大使のもと、

薩摩出身の大久保、

長州出身の木戸・伊藤という陣容の中で、

山口は、大隈に代わる肥前という藩閥の代表であった

という見方もある
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〜岩倉使節団(3)〜
 
この岩倉使節団派遣は、

* 江戸幕府が条約を締結した各国への国書の奉呈

* 条約改正のための交渉

* 欧米近代国家の制度・文物の調査・研究

を目的とした。


しかし、最初の訪問地アメリカで

条約交渉が長引いたことに端を発して、

当初予定の10ケ月半の予定をはるかに超え

1年10ケ月にもおよぶ長旅となり、

欧米12ケ国の訪問を終えて帰国したのは明治6年9月。

また、この旅が若さで補っても補いきれぬほどに

困苦に満ちたものであり

久米邦武の『特命全権大使米欧回覧実記』からも

彼らの強烈な熱意と使命感なしには

到底成し遂げえない旅であったようだ
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〜岩倉使節団(4)〜

岩倉使節団についての評価はその後もわかれる。

派遣の目的のひとつでもあった条約改正への交渉は

実質的には失敗に終わり、

以降は極端な欧化政策へと方向を転換し、

明治を象徴する鹿鳴館での交渉へと移っていく。


新国家建設のモデルを欧米に求め、

各先進国の中に新しい日本の

進むべき道を探ろうとしたという意味では

まさに近代日本の船出を象徴する事業として

見ることができる。

そして、山口のみならず使節団各員にとっても

世界という目で、

東洋の果てに浮かぶ日本を見る

という視点を培った旅であったようだ。
 
また多くのメンバーがそれぞれの任務を負って分散したため

必ずしも全員が常に行動をともにし

同時に帰国したわけではなかった。

そのような中、山口は最後まで使節団の中にあった。
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〜岩倉使節団(5)〜

早稲田大学中央図書館所蔵「大隈文書 山口尚芳書簡」中に

欧米回覧中に山口が大隈重信に宛てて書き送った書簡が

全部で16通確認されている。


山口には、副使である自身の「従者」としての同行者がいた。

山口俊太郎、川村勇、相良猪吉の3名である。

山口俊太郎は、出航当時数え年10歳の山口尚芳の長男である。

前掲書簡中に幼い俊太郎が自ら通訳をかって出るなど

その語学習熟の速さに驚嘆した様が記述されている。

この時、留学生として使節団に同行した少年は多く

なかでも俊太郎は、鹿児島の岩下長十郎とともに

「一行中の二神童」と呼ばれるほどの怜悧さを持ち合わせていた。

俊太郎は、そのままイギリスに滞在、

9年後に帰国したが、彼の英語は

イギリス人と寸分変わらぬほどであったという。

川村勇については、

出航当時数え年14歳・静岡出身とわかるのみで、

山口の従者となった経緯等は不明である。

しかし、この旅を最後に18歳で短い生涯を終えた。

もう一人の相良猪吉は、

従来の研究では素性不明の人物であった。

しかし「大隈文書山口尚芳書簡」にはたびたび「相良君」の名が登場。

おそらくは相良猪吉と同一人と推測される。

彼は眼病を患っていたようで

その病状についても書簡中に触れられている。

また、大隈の甥(大隈の姉妙子の子か)であることも確認。

しかし「相良君」のその後については判然としない。

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