(1) 佐賀藩士「山口 尚芳」(やまぐち ますか/なおよし) 天保10年(1839) 〜明治27年(1894) 明治時代の官僚、政治家、もと佐賀藩士(武雄領出身)。 父は山口尚澄。 通称は範蔵(はんぞう)。 天保10年(1839)山口形左衛門尚澄の子として 武雄に生まれた。幼名は範蔵。 幼少のころから佐賀藩武雄領主鍋島茂義に将来性を見込まれ、 佐賀藩主鍋島閑叟(直正)の命により、 他の藩士子弟らとともに長崎に遊学し、 オランダ語や蘭学を学んだ。 また、同藩の大隈重信・副島種臣らと共に、 長崎に設立された英語伝習所(後の済美館)で、 当時ちょうど来日していたグイド・フルベッキに英語を学んでいる。 他藩の俊才と肩をならべ英語の習得に励み、 帰藩後は、翻訳方兼練兵掛として勤務する。 |
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(2) 幕末の政治状況の中で、 薩摩藩や長州藩の武士と交流し薩長連合にも尽力。 また岩倉具視ら公家とも接近し、 王政復古後は東征軍に従軍。 江戸開城に伴い薩摩藩の小松帯刀らとともに江戸へ赴いた。 |
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(3) 明治新政府においては、 明治元年(1868)3月に外国事務局御用掛、 4月に外国官、 5月に大阪府判事試補、 9月に越後府判事続いて東京府判事兼外国掛、 11月には外国官判事になるとともに箱館府在勤を命ぜられ、 従五位下に叙せられる。 明治2年(1869)1月、 長崎に出向きフルベッキに対し 東京に新たな大学を作るために招聘、受諾をうける。 4月に外国官判事兼東京府判事となり通商司総括を命じられる。 5月、会計官判事を命ぜられ、 6月には会計官判事をもって大阪府在勤を命ぜられる。 7月、大蔵大輔と民部大輔を兼務した同郷の大隈重信を補佐して、 大蔵大丞兼民部大丞となる。 |
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(4) 明治3年(1870)北海道開拓御用掛を命ぜられ、 明治4年(1871)外務少輔に転じた。 同年従四位に叙された上で、 欧米の視察および条約改正の下準備として 岩倉を全権大使とした遣欧使節が 派遣されるにおよび大久保利通・木戸孝允・ 伊藤博文とならぶ副使に任命され 明治6年(1873)9月まで各国を歴訪した。 その際、子息俊太郎を同行させ 英国に留学させたまま帰国する。 |
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(5) 帰国後に起きた征韓論争においては、 大久保・木戸らとともに遣韓使節反対の立場を取る。 このため、明治7年(1874)2月に 征韓論を唱えた江藤新平らが起こした佐賀の乱においては、 政府軍の側に立って鎮圧に尽力した。 まず、故郷・武雄の元領主鍋島茂昌や その家臣であった士族を説諭し、 反乱への呼応を抑止。 自らも長崎に入り海軍警備兵を率いて 佐賀に入城、乱の鎮圧に当たった。 尚、佐賀の乱の際、武雄は反乱軍の脅迫に屈し 64名の兵士をやむなく乱に派遣していたため問題となったが、 鍋島茂昌が新政府軍に提出する謝罪文を添削するなど 武雄の罪を免ずるために努力している。 |
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(6) 明治8年(1875)元老院議官。 明治13年(1880)には元老院幹事となり、 会社並組合条例審査総裁となる。 明治14年(1881) 前年に設置された会計検査院の初代院長に就任し、 勲二等に叙せられる。 しかしながら、 大隈重信が新政府から追放された明治14年の政変の影響で、 同年10月に会計検査院長の職を辞し、 参事院(内閣法制局の前身)の議官となり 外務部長兼軍事部長に任ぜられる。 明治15年(1882)から明治16年(1883)にかけては、 戒厳令、清韓両国在留ノ御国人取締規則、 徴兵令改正案が元老院審議に付されるに当たり 内閣委員に命ぜられる。 明治18年(1885)正四位に叙され、 参事院が廃された後は再び元老院議官となる。 明治19年(1886)従三位に叙され、 明治20年(1887)高等法院陪席裁判官となる。 明治23年(1890)貴族院議員に勅撰される。 |
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