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                        「田能村竹田」−1        歴史のページへ


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安永6年(1777)〜天保6年(1835)

江戸時代後期の南画(文人画)家。

旅を好み日本各地を遊歴。

詩文を得意とし画論『山中人饒舌』などを著した。

幼名は磯吉、後に玄乗、行蔵。

名は孝憲。字は君彜(くんい)。通称は竹蔵。

別号は九畳仙史・竹田老圃・竹田邨民・

秋心・随縁居士・九峯無戒衲子・紅荳詞人・

田舎児・ 藍水狂客・三我主人・西野小隠・

秋声館主人など。

更に斎号(居室の名)に竹田荘・補拙廬・

雪月書堂・対翠書楼など多数。



A
豊後国直入郡竹田村の

岡藩儒医田能村碩庵の次男として生まれる。

母は水島氏。

禄高12人扶持であったが

これは武士の中ではかなり低く、

更に藩の財政難で

実際はこの6割程度しか俸禄を得られなかった。

この為竹田は生涯にわたり

生活資金の工面に苦労させられることになる。


B
6歳で素読を始め、

11歳で藩校由学館に入学。

成績は極めて優秀だった。

その詩才を見抜いた師の唐橋君山は

詩文結社竹田社・米船社の同人に迎えた。

翌年、耳病と眼疾を発病する。

寛政6年(1794)18歳のときに母と兄を亡くし、

翌年田能村家の嫡男となり藩主にまみえた。

20歳頃より淵上旭江門の地元画家に画を学び、

君山の紹介で江戸の谷文晁に

現在でいう通信教育まで受けている。

22歳のとき由学館に儒員として出仕し

最終的には頭取に出立している。



C
医業を辞めて学問に専心することとなり、

幕命により『豊後国志』の編纂に携わった。

享和元年(1801)編纂事業準備のため江戸に下向。

その途次大坂の木村蒹葭堂を訪ね、

江戸ではかねてより文通のあった谷文晁を訪問。

文化2年(1805)眼病の治療と儒学を学ぶため、

途中博多、長崎、熊本、小倉、下関に立ち寄り

京都へ約2年間遊学。

その間村瀬栲亭に入門。

大坂では浦上玉堂や岡田米山人・

上田秋成らと知遇を得る。

文化8年(1811)生玉の持明院で頼山陽と邂逅、

以来親交を深める。

またこの年秋には紀州にて

野呂介石にも画法を指南されている。




D
文化8年には専売制度に反対して

藩内に農民一揆が発生。

竹田は農民救済・学問振興を含めた藩政改革を

要求する建言書を藩に2度提出したが

受け入れられず、

病気療養の必要もあり文化9年(1812)辞表を提出。

翌年致仕は認められ、

37歳の若さで隠居となるが、

休息料として名目上2人扶持の俸給を

与えられており、

周囲の竹田への信頼を物語る。

それ以後豊後と京阪との間を行き来しながら、

頼山陽をはじめ岡田半江・浦上春琴・

菅茶山・青木木米などの文人たちと交流を持つ。

 
E

文政9年(1825)50歳で長崎に遊歴。

来舶清人や長崎派の画家から中国絵画の技法を学ぶ。

天保6年夏、大坂の藩邸で亡くなった。

享年59。

大坂天王寺の浄春寺に葬られた。

没後100年を記念して昭和9年(1934)に顕彰碑が建てられた。

顕彰碑の背面には田能村竹田の経歴と共に

大正12年(1923)に従五位が贈られた事がしるされている
F
画の弟子に高橋草坪や帆足杏雨・

田能村直入(養継子)などがいる。

竹田は筆まめで多くの著作を著している。

とりわけ『山中人饒舌』は

日本の文人画史・画論として当時から広く読まれ、

『屠赤瑣瑣録』では文事や文人趣味などを

知る上での資料価値が高い。

また『竹田荘師友画録』は

師友となった104名の人物評伝を掲載している。

G
竹田は元末四大家や宋代の米友仁を敬慕。

多くの人物との交流から

様々な画風を学んだことで

山水図・人物図・花鳥図とその画域を広げ、

写実を通して

文人画のエッセンスともいうべき写意を表現した。

晩年は繊細で味わい深い画境に到達し

旺盛に創作をした。






H
現在、竹田の作品は、

出光美術館に約200点、

大分市美術館に45点、

竹田市歴史資料館に10点をはじめ、

日本各地の24カ所の

美術館・博物館に所蔵されている。


代表作

重要文化財指定作品

 花卉図(大分市美術館)6幅対

  紙本墨画淡彩 1808年

 四季花鳥図(大分市美術館)4幅対

  絹本着色 1809年

 雁来紅群雀図(大分市美術館)1幅

  1813年

 富士図(大分市美術館)1幅
  
  1819年

 月下芦雁図(大分市美術館)六曲一隻

  1823年

 梅花書屋図及題詩(大分市美術館)双幅

  紙本墨画 1824年

 渓荘趁約図(大分市美術館)1幅

  絹本墨画 1828年

 柳陰捕魚図(大分市美術館)1幅

  1828年頃

 秋景山水図(大分市美術館)4面

  1828年

 松鶴図(大分市美術館)4面

  1828年

 船窓小戯帖(個人蔵)1帖

  紙本淡彩 1829年

 稲川舟遊図(個人蔵)1幅

  紙本淡彩 1829年

 亦復一楽帖(寧楽美術館)1帖全13図

  紙本淡彩 1830年

 騎馬武者図(大分市美術館)1幅

  1818〜30年(文政年間)後半

 冬籠図(大分市美術館)1幅

  1826〜30年

 暗香疎影図(大分市美術館)1幅

  紙本淡彩 1831年

 五言古詩及?詞(大分市美術館)双幅

  紙本墨書 1831年

 歳寒三友双鶴図(個人蔵)1幅

  絹本著色 1831年

 桃花流水図(大分市美術館)1幅

  1832年

 曲渓複嶺図及題詩(大分市美術館)双幅

  1832年

 秋渓間適図(大分市美術館)1幅

  1832年

 梅花書屋図(出光美術館)1幅

  紙本著色 1832年

 松巒古寺図(東京国立博物館)

  紙本墨画淡彩 1833年

 盆卉図(大分市美術館)

  紙本淡彩 1833年

 澗道石門図(大分市美術館)1幅

  1834年

 浄土寺図(大分市美術館)1幅

  1834年

 漁樵問答図(大分市美術館)1幅

  絹本淡彩 1834年

 秋渓趁約図(大分市美術館)1幅

  紙本淡彩 1834年

 君子延年図(大分市美術館)1幅

  紙本淡彩 1830〜35年

 煙霞帖(京都国立博物館)

  重要美術品 1811年

 金箋春秋山水図屏風(白鶴美術館)六曲一双

  紙本金箋淡彩 1823年

 軽舟読画図(個人蔵)重要美術品

 松溪載鶴図(出光美術館)重要美術品

  1832年

 松溪聴泉図(出光美術館)重要美術品





I
著作

 『山中人饒舌』

 『竹田荘師友画録』

 『屠赤瑣瑣録』

 『陪駕日記』

 『暫遊日記』
 
 『花竹幽?の記』

 『葉のうらの記』

 『黄築紀行』

 『竹田荘詩話』

 『百活矣』

 『瓶花論』

 『填詞圖譜』


J
補足〜1


田能村竹田は文化10年(1811)35歳の時、

隠居を許され、自由の身となります。

でも、画家として円熟するのは、

50歳以後といわれています。

厳しい修業の時代の間、

各地の文人・学者との交流があります。

頼山陽はじめ、青木木米、浦上春琴、

雲華上人、小石元瑞らとの交流は有名です。

文政5年(1821)には杵築へ遊び、

高橋草坪を見出し門弟に、

同7年には帆足杏雨が入門と

門弟も多く養いました。

K
補足〜2


竹田の絵に大きな転機をもたらしたのは、

文政9年(1826)50歳の時の長崎旅行とされています。

長崎で中国人の絵を沢山見て、

「日本の画工の軽薄さでは、とても及ぶところではない。

 もはや絵をやめようかと思う−」と、

高橋草坪に書き送ったほどです。

しかし、絵の専門家ではないことを自覚して、

新しい道を切り開きます。

つまり、「拙」であることを自認し、

そこに自らの特質を見出していきます。

文人画では、

描かれた表面の上手さとか美しさよりも、

「気韻生動」〜一本の線、1滴の墨にも

生命がみなぎっていることを重んじました。

画論として有名な著書「山中人饒舌」の中で、

「筆を用いてたくみでないのをうれいはしない。

 精神の至らないのをうれえる」

といっているほどです。

こうして、竹田独自の画境が開かれていきます。




L

補足〜3


「松巒古寺図」「松泉山水図」「稲川舟遊図」

「船窓小戯図」「亦復一楽帖」は、

大阪の松本酔古の依頼でかいたものですが、

頼山陽に跋を頼んだところ、

山陽がこれにほれこんで自分のものにした

というエピソード付きの名作です。

晩年の竹田は旅に明け暮れます。

天保5年(1834)門弟の三宮伝太(田能村直入)を

大塩平八郎の門下にし、

翌6年、吹田村で発病、

「不死吟」を絶筆として、59歳の生涯を閉じました。

与えた影響は大きく、江戸末期から明治にかけて、

豊後から多くの画家を生み出しました。

M
補足〜4


竹田の家は代々藩に使える医者ですが

皮肉なことに竹田も兄弟も病弱でした。

「長男は身体が弱いため跡継ぎを出来ません」

という願いが藩に受け入れられます。

また、寛政5年(1793)の年末に火事で家が全焼。

翌年には病弱だった兄が亡くなり、

その49日の直後に母まで亡くなってしまいます。

本人も耳や目を患います。

このように身体が弱かった竹田は、

22才の時に藩主から

病弱だが学問にたけているから

医者を無理に継ぐことより学問の道をすすむように

と言われ、これがきっかけで

岡藩が始めた「豊後国志」の編纂に関わることになる。

N
補足〜5


その編纂の中心的な人物が

江戸から来た医師・唐橋君山です。

若かった竹田に大きな影響を与えます。

後年、竹田が才能を発揮することになる画や詩文も、

君山のコレクションがきっかけです。

江戸の谷文晁を紹介してもらい

今で言う通信教育をも受けている。

君山は社交的な人で、

当時の第一級の知識人たちと懇意にしていました。

でも君山は編纂事業に着手した3年目に逝去。

後を頼まれた竹田が苦労の末に完成させたとがその5年後。

つまり8年かかって、やっと完成します。

編纂の苦労は以上に多くの知識人たちと人脈を繋ぎます
O
補足〜6


50過ぎてからの長崎遊学は少し遅めの遊学ですね。

実は竹田が長崎を訪れたのは、

この時が3回目です。

前の2回はほんの数日だったので

ゆっくりと時間をかけて長崎の町に訪れたのは

本物の中国の絵を勉強するためです。

もう、画の才能が世間で認められる存在になっていた頃です。

でも、長崎遊学は後の竹田を「画聖」へと育てます。

長崎での感動を息子・太一への手紙にこう書いています。

「長崎の繁華街は、江戸や京都よりきらびやかです。

 食べるもの、着るもの、なんでも華やかで贅沢。

 何を見ても、何を聞いても珍しく、おもしろい」

当時の長崎がいかに活気にあふれていたかがわかります

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