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幕末期 長崎で活躍した人物 |
(1) 江戸時代後期の幕臣、 明治時代の政治家、伯爵。 元は松木弘安(松木弘庵)。 通称は寺島改姓後に陶蔵と名乗った。 日本の電気通信の父と呼ばれる。 第4代外務卿として活躍 天保3年(1832)薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦に 郷士長野成宗の次男として生まれる。 幼名徳太郎、または藤太郎 天保7年(1836)4才の時、 伯父松木宗保の養嗣子となる。 通称を松木弘安といい のちに生家の前に浮かぶ寺島の名を用いて 寺島陶蔵と改め、さらに宗則と改名した。 養父が医者で長崎に派遣されていたので、 宗則も10才ぐらいまで長崎で過ごします。 8才から蘭通詞堀専次郎などからオランダ語を学ぶ。 弘化2年(1846)15才の時、江戸に出て 戸塚静海や伊東玄朴に医学はもちろん、 兵術、天文、造船、地理、オランダ語と はばひろく学びます。 薩摩藩主島津斉彬の侍医にもなったが、 斉彬の死後には藩を離れて幕府の蕃書調所に勤める。 |
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(2) 安政2年(1855)斉彬の命により 川本幸民とともに電信機を考案 文久元年(1861)幕府の第1次遣欧使節の一員として フランス・イギリス・オランダ・ベルギー・ ロシア・ポルトガル諸国を歴訪。 病院・学校・電信局を見学 文久3年(1863)薩摩藩船奉行となる。 薩英戦争においては五代友厚とともに捕虜となる。 慶応元年(1865)第2次遣欧使節に参加する。 五代友厚ら薩摩藩士一行19名とともに 羽島(串木野)よりイギリスへ。 慶応2年(1866)帰国 寺島陶蔵と改名 慶応3年(1867)薩摩藩開成所教授となる。 封建制を廃止し王政の基礎確立の意見書を島津忠義に提出 この年、徳川慶喜は大政奉還します。 イギリスの日本に対する外交政策を改めさせようと努力。 慶応4年(1868)神奈川府判事 東京〜横浜間電信開設を提案。 明治元年(1868)神奈川県知事 国営電信建設の一切を委任される。 明治2年(1869)遣欧使節での経験を生かして外交官となる。 電信創業。東京〜横浜に公衆電報の取り扱いを開始 当時「電線をお守りにするために切るものが多い」と 訴える部下に対して 「人民は切り役、政府はつなぎ役」 と言ったと伝わる。 着実に工事を進め、 のちに「電気通信の父」と呼ばれる。 明治6年(1873)参議兼外務卿。 明治10年(1877)勲一等。 西南戦争後の政府の財政難から税権回復を目指し、 明治12年(1879)には諸外国との条約改正に臨み、 アメリカとの交渉は良好に進むが イギリスの反対やドイツ船へスペリア号事件などもあって 条約改正への希望を挫折せざるを得なくなり、 外務卿を辞職。 その後、外交官を辞職し、 元老院議官、枢密院副議長、枢密顧問官などを務める。 明治17年(1884)伯爵。 明治26年(1893)62歳で死去。 |
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(3) 明治の新政に参画した若き科学者でもあった寺島宗則が 電気通信ネットワークのさきがけとして活躍したことは あまり知られていません。 今日の日本の情報通信事業発展の基礎をつくりました。 沈着冷静で英語・ドイツ語・フランス語を話せ、 経済学に精通していたという 不平等条約の改正交渉に向け努力、手腕を振るう。 その中で障害となった事件が二つ。 ハートレー事件 明治10年(1877)イギリス商人ハートレーによる アヘンの密輸事件。 横浜イギリス領事裁判所は ハートレーに無罪判決を出す。 ドイツ検疫拒否事件。 明治11年(1878)年神戸でコレラが大流行したため、 神戸港に停泊中だったドイツ船ヘスペリア号の 乗組員に対して検疫を要求。 ヘスペリア号は日本側の要求を無視し、 検疫を拒否して横浜に向けて出港、 その結果、横浜でコレラが広まってしまった。 この事件の収拾を付けれなかった責任を取った形で 寺島は外務卿を辞任することになる。 この後の外務卿の井上馨は欧化政策を展開 いわゆる鹿鳴館時代を迎えることになる。 日本の不平等条約撤廃への道は 時間も痛みも伴う困難な道であった。 |
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