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                        「天領時代の長崎」      


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『長崎代官』〜1


豊臣政権時代の長崎の代官には

豊臣秀吉により任命された代官と

地租を免除された町以外を支配した

長崎地下人の代官とがいた。

近世初期には秀吉が派遣した代官を

長崎奉行と呼ぶ事もあった。

江戸時代になってから

長崎代官は引き続き御免地以外の地を支配し

御免地を長崎奉行が支配した。

江戸時代初期も長崎奉行を長崎代官と呼ぶことがあったが

寛永年代に入ってからは「長崎奉行」と呼称される事が多くなり、

島原の乱後に就任した馬場利重の頃から

長崎奉行という呼び方に統一され

寛永18年(1641)以降は

奉行が長崎代官と呼ばれることは無くなる。





A
『長崎代官』〜2


豊臣秀吉は、天正16年(1588)4月2日に

鍋島直茂を長崎の代官に任命した。

同年6月には寺沢広高と藤堂高虎が奉行に任命され

長崎へ派遣された。

代官の鍋島が長崎の地を常時監視する役目を負い

寺沢と藤堂は海外貿易での秀吉のための買物係と

貿易の監視のために派遣され

取り引きが終わった後は大坂へ帰還した。

文禄元年(1592)には、

朝鮮へ出兵した鍋島に代わり

寺沢広高を代官に任命する。

ただし、寺沢は多忙のため

家老など配下の者を派遣し

長崎の統治を代行させていた。

この頃は長崎に派遣された奉行は

海外の品の購入が主な職務で

長崎の統治は長崎代官が担っていた。

ただし、長崎の地誌類の多くは

初代長崎奉行は文禄元年に代官に就任した寺沢としている。

御免地以外を支配した代官村山等安は

その出自は不明であるが

長崎で朱印船貿易により財をなした商人である。

文禄元年(1592)秀吉に謁見した等安は

長崎の地子銀25貫を納入させる代わりに

御免地(地子御免除の特別地域)以外の

直轄地の支配を任された。















B
『長崎代官』〜3

徳川家康の直轄領となった慶長9年(1604)に

等安は家康に謁見し

改めて長崎の代官を勤める事を許された。

その後も等安は貿易により財を蓄えたが

末次平蔵の訴えにより

キリシタンの擁護と大坂の豊臣方に内通した嫌疑で

元和5年(1619)江戸で斬首。

彼の一族も長崎において処刑された。

村山に代わって末次平蔵政直が長崎代官となり

以後4代に渡って代官職を務めるが

延宝4年(1676)に密貿易が発覚し

4代茂朝とその一族や関係者は処罰される。

末次家の処罰後、代官職は長崎の町年寄が代行する。

元文4年(1739)長崎町年寄の高木作右衛門忠与(忠與)が

長崎の近郊の幕府領3000石の代官に任命され

以後は高木家の世襲となった。











C
『長崎代官』〜4


〜代官の職務〜1


天正16年(1588)に長崎の代官となった鍋島直茂の職務は

物成などの収納・秀吉の御用物の購入・

長崎およびその近隣地域の警備と

海外貿易の取り締まりであった。

一方、村山等安は長崎の外町の統治を任されていた。

秀吉に納める地子25貫以外は己の収入とし

貿易で得た利益を加えて莫大な資産を貯えた。





D
『長崎代官』〜5


〜代官の職務〜2


徳川家康に代官職を務める事を追認された村山等安は

引き続き長崎の外町の統治を任された。

その後に代官となった末次平蔵は

当時長崎に常駐ではなかった長崎奉行の補佐役として

長崎の町政に大きく関与した。

町年寄の高木作右衛門家が代官を勤めるようになった後

明和元年(1764)に米方・寺社方事務が長崎代官に属し

文化2年(1805)には抜荷取締も兼ねる。

江戸時代後期には米100俵と受用銀45貫を受けた。

代官は、支配地の徴税を執行し

海外貿易の輸入貨物の検査

南北瀬崎の米蔵・御用物蔵・武具蔵・御船蔵のほか

長崎の寺社を管理した。

長崎代官は勘定奉行直属だが

長崎奉行の指示を受けて動く事もあった。

幕末には天草代官も兼務した。












E
『長崎代官』〜6


〜代官の職務〜3


江戸詰めの奉行が長崎在勤奉行と

交替するために長崎に来る際には

高木作右衛門は邸外に出てその到着を待つ。

高木邸のある勝山町で作右衛門が出迎えるのを見て

奉行は駕籠を出て挨拶を交わす。

奉行が駕籠を出て挨拶するのは代官の高木作右衛門のみで

他の地役人や西国諸藩から派遣される長崎聞役達には

そのような事はなかった。
F
『長崎代官』〜7


〜代官所〜長崎代官の屋敷〜


長崎代官の屋敷(2065坪)は勝山町にあった。

これは村山等安、末次平蔵らの屋敷地だったものを

引き継いだものである。

代官所には手付や元締手代・手代が置かれ

他にも御船頭2人、御武具御用物蔵預5人、

御米蔵預12人がいた。

また、水主、御用物方、郷村庄屋、能役者、

能太夫などが代官に付属した。
G
『長崎代官』〜8


〜代官支配地〜1


長崎には、地租を免除された内町と

それ以外の外町があった。

内町は、天正16年(1588)秀吉によってイエズス会より収公され

直轄領となった10町で後に増加して23町となった。

外町は、慶長2年(1597)に造成された材木町に始まり

寛永19年(1642)までに市街化した地域で

後に43町となった。

寛文12年(1672)には人口の多い幾つかの町が分割され

内町26町・外町54町の計80町となった。
H
『長崎代官』〜9


〜代官支配地〜2


長崎代官は当初、

内町とそれに付随する茂木や浦上などを支配し

徴税や行政を執り行った。

しかし、内町が長崎奉行の支配となると

外町年行司(後に外町常行司と改称)2人の補佐のもと

大村藩から上知した外町や長崎村、浦上村などを支配した。

慶安元年(1648)末次平蔵3代目の茂房の時には

野母村・高浜村・川原村の3村が

寛文9年(1669)には茂木村、樺島村、日見村、

古賀村の4村が長崎代官支配となった。
I
『長崎代官』〜10


〜代官支配地〜3


元禄12年(1699)に内町と外町の区別が廃止され

長崎80町は長崎奉行の支配となった。

それに伴い長崎代官は長崎村以下の郷3ヶ村

(長崎村、浦上山里村、浦上淵村。計約4400石)と

長崎周辺の7ヶ村(茂木村、野母村、高浜村、

川原村、樺島村、日見村、古賀村。計3000石)を支配。

抜荷の取り締まり等も長崎市中同様に行われた。


肥前国高来郡・彼杵郡の天領7ヶ村が

管轄地になったのは明和5年(1768)のことで

寛政11年(1799)に松浦郡内に1万石

文化7年(1810)には更に1万石

同9年(1812)には肥後国天草郡に2万3千石

同13年(1816)には日向に7千石の所管地を与えられた。

幕末の13代作右衛門忠知は

計16万石を管轄する事になった。
J
『町年寄』〜1


江戸時代の町政を司る町役人の筆頭に位置するもの。

地域によってその名称は異なり

江戸や長崎、京都、甲府・福井・鳥取・

敦賀・小浜・尾道・酒田などでは町年寄だが、

大坂や岡山・高知・堺・今井・平野・

鹿児島では惣年寄(総年寄)、

名古屋で惣町代、

姫路・和歌山・松江・松坂では町大年寄、

岡崎では惣町年寄頭、

青森では町頭、

新潟では検断と呼んだ。

選任方法は、世襲制の場合と

選挙で決められる場合とがあった。
K
『町年寄』〜2


〜長崎町年寄〜1


鎖国以前の長崎において、

朱印船貿易に携わり、

長崎の町の富裕層でもあったリーダー的な集団を

頭人(とうにん)と呼んでいた。

頭人の発祥は流浪の武士とも

長崎甚左衛門の家士とも言われている。

頭人は、腕力が強く、リーダーとしての資質があり、

また商才のある者たちが長崎で頭角を現し、

イエズス会領・秀吉の直轄領・

徳川幕府の天領と時代の変化に対応しながら、

長崎地下人達のリーダー格となって長崎を治めてきた。

この頭人達が、後の町年寄の先祖である。
L
『町年寄』〜3


〜長崎町年寄〜2


豊臣秀吉によって長崎奉行に任ぜられた

唐津城主寺沢志摩守広高が、

有力な貿易商であり町衆の指導層でもあった

高木勘右衛門了可・高嶋(高島)了悦・

後藤惣太郎宗印・町田宗賀を頭人に取り立て、

町政の実務を任せた。


頭人が町年寄と改められたのは文禄元年(1592)。

地租を免じられた内町を町年寄が治め、

それ以外の外町を長崎代官の村山等安が支配した。


慶長8年(1603)家康は新年慶賀のため上京した村山等安と

イエズス会のジョアン=ロドリゲス神父に対して、

等安と町年寄4人を改めて

長崎の首長に任じて長崎の統治を委ね、

ロドリゲスにも長崎の支配管理のために

市政に参与することを求めたという。

これにより、秀吉の没後も長崎内町は町年寄が、

外町を代官の村山が治めることとなった。
M
『町年寄』〜4


〜長崎町年寄〜3

当初は頭人出身の高木・高嶋・

後藤・町田の4人体制だった。

寛永年間に町田家が没落した後は

高木彦右衛門永貞が町年寄に就任し、

元禄10年(1697)に高木彦右衛門貞親が

唐蘭商売元締に任命されると、

外町常行司の薬師寺又三郎種政が町年寄に任ぜられた。

元禄12年(1699)に内町と外町の区別が廃止された時に

外町常行司の福田伝兵衛重好と

久松善兵衛忠辰が加えられて6人制となった。

文政5年(1822)以降は、

高木・高島(2家)・後藤・薬師寺・

福田(2家)・久松(2家)の9人制となった。


彼らの受用高は70俵5人扶持(受容銀は12〜29貫目)

大村町の高島家や西浜長の久松家などは、

1000坪以上の大邸宅であった。

長崎会所調役を勤める場合は他に5人扶持を、

年番となった場合は受用銀を25貫目、

添年番は受用銀10貫目が支給された。
N
『町年寄』〜5


〜長崎町年寄〜4


町年寄に取立てられた高島了悦・

高木勘右衛門・後藤宗印・町田宗賀ら4人は

いずれも有力なキリシタンでもあった。

しかし、寛永3年(1626)に

長崎の住人に対してキリシタン棄教命令が出され、

長崎奉行の水野守信は、

キリシタンから転宗した長崎代官・末次平蔵や

町年寄の高木作右衛門の協力により、

キリシタン取締りに乗り出した。

この棄教令に従う事を拒否した町年寄の

町田宗賀ジョアンと後藤宗印トメは長崎の町を出た。

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