@ 田中 久重(たなか ひさしげ) 寛政11年(1799)〜明治14年(1881) 江戸時代から明治にかけて 「東洋のエジソン」 「からくり儀右衛門」と呼ばれ 活躍した発明家である。 筑後国久留米生まれ 久重が創設した田中製造所は 後年『東芝』となる。 |
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A 寛政11年(1799)筑後国久留米の 鼈甲細工師・田中弥右衛門の 長男として生まれる。幼名は「儀右衛門」 幼い頃から才能を発揮し 久留米・五穀神社の祭礼では 当時流行していたからくり人形の 新しい仕掛けを次々と考案して 大評判を呼ぶ。 この間九州各地や大阪・京都 ・江戸でも興行を行い その成功により全国に その名を知られる。 |
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B 天保5年(1834)には大阪の伏見に移り 懐中燭台、無尽灯などを考案し 「からくり儀右衛門」と呼ばれ人気を博する。 その後京都へ移り 天文学や蘭学などの西洋の文化技術を学ぶ。 嘉永4年(1851)には 「万年自鳴鐘」を完成させた。 (現在国の重要文化財に指定) 『万年自鳴鐘』 「万年時計」として知られるこの時計は 平成16年(2004)に 東芝、セイコーなどの研究者によって 分析・復元されレプリカが 平成17年(2005年)の愛 ・地球博で展示された。 この復元作業には100人の技術者が携わり 最新の機材を投入したが、 解析に時間がかかり、 愛・地球博に展示されたレプリカは 完璧な復元には至らなかった。 原品は国立科学博物館に寄託され、 平成19年(2007)には 機械遺産に認定された。 |
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C 嘉永6年(1853)佐野常民の薦めで 蘭学狂いと言われた鍋島直正が治める 肥前国佐賀藩の精煉方に着任し 国産では日本初の蒸気機関車 及び蒸気船の模型を製造。 文久3年(1863)佐賀藩の反射炉で 初の国産アームストロング砲を完成させ 佐賀藩の興隆に尽くす。 元治元年(1864)には久留米藩に帰り 藩の軍艦購入や銃砲の鋳造に携わり 殖産興業等にも貢献した。 |
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D 明治6年(1873)に上京。 明治8年(1875)に東京・銀座に 電信機関係の「田中製造所」を設立。 明治14年(1881) 発明に全てを捧げた82年の 生涯に幕を閉じた。 久重亡き後、 養子の2代目久重が会社を受け継ぎ これが現在の東芝の基礎となった。 |
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E 『久重の言葉』 高い志を持ち、創造のためには 自らに妥協を許さなかった久重は 以下の言葉を残している。 「知識は失敗より学ぶ。 事を成就するには、志があり、 忍耐があり、勇気があり、 失敗があり、 その後に、成就があるのである」 |
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F わずか8歳にして開かずの 硯箱を作った久重。 ゼンマイ仕掛けのからくり人形づくりから 和時計の最高傑作、蒸気機関、 電話機までも開発します。 「からくり儀右衛門」は 人を喜ばせることに何よりも 生甲斐を感じ、 人々の必要としているもの、 生活を豊かにするものを考え、 そのアイデアを次々と 形にしていきました。 主な発明品 文化4年(1807) 開かずの硯箱 1820年代 弓曳童子 1820年代 童子盃台 天保5年(1834) 懐中燭台 天保8年(1837) 無尽灯 嘉永3年(1850) 須弥山儀 嘉永4年(1851) 万年時計(万年自鳴鐘) 嘉永5年(1852) 蒸気船(スクリュー式)の雛形 安政2年(1855) 蒸気車・蒸気船(外輪式)の雛形 文久3年(1863) アームストロング砲 明治4年(1871) 無鍵の錠 明治11年(1878) 電話機(試作) その他 製氷機、ネジ切りゲージ、 自転車、精米機、写真機、昇水機、 改良かまど、旋盤楕円削り機、煙草切機、 醤油搾取機械、種油搾取機、報時機など |
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G 補足〜1 「からくり」と「くるめかすり」 「発明工夫をもって天下に名を揚げたい」 家職を捨て十代半ばにして からくり発明家としての 才能を町中に広めた。 『久留米かすり』の創始者・井上伝の 「定番のかすりを素材とする 工芸だからこそ、 今までにない模様で差をつけたい」 との願いに応え、従来とは違う 花や鳥の美しい模様を織り上げた。 久留米の文化発展・継承にも一役買った。 |
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H 補足〜2 二十代の久重は、からくり興行師として 大坂・京都・江戸などを行脚した。 水力や重力、空気圧など、 様々な力を利用した"からくり人形"が、 彼の十八番である。 童子盃台、文字書き人形など、 行く先々の人々をおおいに驚かせ、 楽しませたのである。 その見せ物の一つが「弓射り(曳)童子」。 4本の矢のうち、 1本だけ射的を失敗するよう 精巧なからくりにあえてミスの演出を加えた。 こうした久重のユーモアのセンスは 興行を成功させた理由の一つであった。 |
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I 補足〜3 天保時代(1830年〜)に入り、 各地で藩政改革が行われるようになると、 からくり興行も難しくなってきた。 そこで久重は実用品の製作 ・販売を始めるために、 天保8年(1834)に 大阪に移り住むことにした。 そこで売り出し、注目を集めたのが、 真鍮製の「携帯用懐中燭台」。 「夜の帳簿つけに 便利だ」という商人をはじめ、 夜間医療の現場でも活躍する中で、 「人々の役に立ち、 かつ新しいモノを作り続ける」 という彼のポリシーを、 名実ともに、世に知らしめた。 |
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J 補足〜4 天保8年(1837)大塩平八郎の乱が勃発。 一面焼け野原と化した逆境の中でも、 久重は、さらに新たな発明に取り組んでいた。 「いつまでも消えない灯り」と 商人を中心に大人気を博した "無尽灯"が発明された。 空気の圧力を利用し、 菜種油が管をつたって灯心に昇る その仕掛けは、長時間安定した灯りを供給し、 商売や生活水準の向上に一役買ったのである。 |
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K 補足〜5 目につくものは何でも 発明に結び付けてしまう"発明の虫"は "西洋時計"に興味を示した。 自らの興味のために、 西洋の天文・数理を学ぶ。 三両あれば一年暮らせると言われた時代に 五十両の大金を握り締め 天文暦学の京都梅小路 ・土御門家の門戸を叩く。 弘化4年(1847)田中久重数え四十九歳。 |
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L 補足〜6 天文家としての学識を備え 最も優れた職人のみに与えられる 「近江大掾」 (おうみだいじょう)の称号を得る。 なおも向学心を磨く。 齢五十を過ぎた嘉永3年(1850) 当時の時計の 概念を根底から覆したといわれる 和時計・須弥山儀 (しゅみせんぎ)を完成させる。 須弥山儀は天動説に即し 仏教の宇宙観を 一つの時計の中で表現した名品。 また京都の蘭学者 ・広瀬元恭の「時習堂」に入門。 医学や物理学、 化学、兵学、砲術などを吸収した。 |
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M 補足〜7 田中久重の子・儀右衛門は 長男岩次郎を伴って長崎に出張した際 同行していた 秀島藤之進により殺害されています。 猛烈な雷鳴により突然発狂したらしい。 時は元治元年(1864)です。 息子・孫の不慮の死により 田中久重は弟子の田中大吉を養子に迎え その子に久重を名乗らせたそうです。 |
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