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                       B-takano     シーボルトの弟子      次へ

「高野長英」〜1


高野 長英(たかの ちょうえい)

文化元年(1804年)〜嘉永3年(1850)

江戸時代後期の医者・蘭学者

通称は悦三郎、諱は譲(ゆずる)。

号は瑞皐(ずいこう)。

父は後藤実慶。養父は叔父・高野玄斎。

江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説くが、

弾圧を受け、それを見ることなく亡くなった。

しかし、開国が実現した後、

明治31年(1898)その功績により正四位を追贈された。


陸奥(後の陸前)仙台藩水沢留守家の藩医出身。

養父玄斎は江戸で杉田玄白に蘭法医術を学んだことから

家には蘭書が多く、

長英も幼いころから新しい学問に強い関心を持つようになった。

文政3年(1820)江戸に赴き杉田伯元や吉田長淑に師事。

この江戸生活で吉田長淑に才能を認められ、

師の長の文字を貰い受けて「長英」を名乗った。

その後長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、

その抜きん出た学力から塾頭となっている。


隠れ家

「高野長英」〜2


文政11年(1828)シーボルト事件が起き、

二宮敬作や高良斎など主だった弟子も捕らえられて

厳しい詮議を受けたが、長英はこのとき巧みに逃れている。

まもなく豊後国日田の広瀬淡窓に弟子入りしたという

この間、義父玄斎が亡くなっており、

長英は故郷から盛んに帰郷を求められるが、

拒絶。家督を捨て、同時に武士の身分を失っている。


天保元年(1830)江戸に戻り、

町医者と蘭学塾を開業した。

まもなく三河田原藩重役渡辺崋山と知り合い、

その能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者として

小関三英や鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たった。

天保3年(1832)紀州藩儒官遠藤勝助らによって

天保の大飢饉の対策会として作られた尚歯会に入り、

崋山らとともに中心的役割を担った。

長英の『救荒二物考』などの著作はこの成果である。
居宅跡

「高野長英」〜3


長英の優秀な語学力を示す有名なエピソードとして、

鳴滝塾出身者の宴会で、

オランダ語以外の言葉を使うと罰金をとるという決まりが設けられた。

多くの者は酒が入るうちついつい日本語をしゃべって罰金を取られていたが、

長英のみオランダ語を使い続けていた。

それを妬んだ仲間の伊東玄朴が、

長英を階段から突き落とし

長英は「GEVAARLIKI!」(オランダ語で「危ない!」)と叫んだ。

というのがある。

長英自身才能を鼻にかけて増長する傾向があり、

仲間内の評判も悪かったが、

当時最高の実力の蘭学者として周囲は認めざるを得なかった。


「高野長英」〜4


天保8年(1837)異国船打払令に基づいて

アメリカ船籍の商船モリソン号が打ち払われるモリソン号事件が起きた。

この際長英は「無茶なことだ、やめておけ」と述べており、

崋山らとともに幕府の対応を批判している。

長英はそうした意見をまとめた『戊戌夢物語』を著し、

内輪で回覧に供した

(ただし、長英の想像を超えてこの本は多くの学者の間で出回っている)

天保10年(1839)蛮社の獄が勃発。

長英も幕政批判のかどで捕らえられ、

永牢の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監。

牢内では服役者の医療に努め、

また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。

これらの行動と親分肌の気性から牢名主として

祭り上げられるようになった。
旧宅

「高野長英」〜5


弘化元年(1844)牢屋敷の火災に乗じて脱獄。

この火災は、長英が牢で働いていた非人栄蔵を

そそのかして放火させたとの説が有力である。

その後の経路は詳しくは不明ながらも

(江戸では人相書きが出回っていたためと言われている)

薬品で顔を変えて逃亡生活を送り、

一時江戸に入って鈴木春山に匿われて兵学書の翻訳を行うも

春山が急死。

その後、鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で

伊予宇和島藩主伊達宗城に庇護され、

宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、

宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。

主な半翻訳本に砲家必読11冊がある。

このとき彼が築いた久良砲台(愛南町久良)は

当時としては最高の技術を結集したものとされる。

しかし、この生活も長く続かず、

しばらくして江戸に戻り、沢三伯の偽名を使って町医者を開業。

医者になれば人と対面する機会が多くなるため、

その中の誰かに見破られる事も十分に考えられた。

そのため硝酸で顔を焼いて人相を変えていたとされている。

「高野長英」〜6


嘉永3年(1850)10月30日、

江戸の青山百人町(現在の東京・南青山)に潜伏していたところを

町奉行所に踏み込まれて捕縛された。

何人もの捕方に十手で殴打され、

縄をかけられたときは既に半死半生だった為、

やむを得ず駕籠で護送する最中に絶命

(現場にいたある捕手役人の覚書)

奉行所に提出された報告書では、奮戦した後、喉を突いて自害したとある。


江戸において勝海舟と会談した、

或いは勝に匿ってもらっていたという話も伝えられている。

主著に1837年のモリソン号事件の際の幕府の異国船打払令を批判した

『戊戌夢物語』など。

また、オランダ語文献の翻訳作業も多く行っている。


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