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幕末期 長崎で活躍した人物 |
「シーボルト」 (1) 「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」 1796年〜1866年 ドイツの医師・博物学者 名前は標準ドイツ語読みではジーボルトである。 本人は南ドイツの出身であったため、 自らの名を「シーボルト」と発音していた。 ドイツの司教領ヴュルツブルクに生まれる シーボルト家はドイツ医学界の名門だった。 父はヨハン・ゲオルク・クリストーフ・フォン・シーボルト、 母はマリア・アポロニア・ヨゼファ シーボルトという姓の前にフォンが添えられているが、 これは貴族階級を意味し、 祖父の代から貴族階級に登録された。 シーボルト姓を名乗る親類の多くも中部ドイツの貴族階級で、 学才に秀で、医者や医学教授を多数輩出している。 父親ヨハン・ゲオルク・クリストフは31歳で亡くなったが、 ヴュルツブルク大学の内科学、生理学教授だった。 妻マリア・アポロニア・ヨゼファとの間に二男一女を儲けるが、 長男と長女は幼年に死去し、 次男のフィリップだけが成人した。 父の死は1歳1ヶ月のときで母方の叔父に育てられる。 |
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(2) シーボルトが9歳になったとき、 ヴュルツブルクからハイディングフェルトに移住 13歳でヴュルツブルクの高校に入学する。 1815年にヴュルツブルク大学に入学した。 家系や親類の意見に従い、医学を学ぶ 大学在学中は解剖学の教授のデリンガー家に寄寓。 医学をはじめ、動物、植物、地理などを学ぶ。 一方で、大学在学中のシーボルトは、 自分が名門の出身という誇りと自尊心が高かった。 またメナニア団という一種の同郷会に属し議長に選ばれ、 乗馬の奨励をしたり、 当時決闘は常識だったとはいえ、 33回の決闘をやって顔に傷も作った。 江戸参府のときに商館長ステューレルが 学術調査に非協力的だとの理由で彼に決闘を申し入れている。 |
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(3) デリンガー教授宅に寄宿し、 植物学者のネース・フォン・エーゼンベック教授の知遇を得た これは彼を植物に目覚めさせた。 ヴュルツベルク大学は思弁的医学から、 臨床での正確な観察、 記述及び比較する経験主義の医学への移行を重視していた。 シーボルトの家系の人たちはこの経験主義の医学の 『シーボルト学会』を組織。 各恩師も皆医学で学位をとり、植物学に強い関心をもっていた。 エーゼンベック教授、デリンガー教授がそうであり、 エーゼンベックはコケ植物、菌類、ノギク属植物等について エーゼンベックは『植物学便覧』という著作を残している。 1820年に卒業し、国家試験を受け、ハイディングスフェルトで開業する。 東洋研究を志し、 1822年にオランダのハーグへ赴き、 国王ヴィレム1世の侍医から斡旋を受け、 7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となる。 |
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(4) 9月にロッテルダムから出航し、 喜望峰を経由して1823年4月にはジャワ島へ至り、 6月に来日、 鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となる。 「江戸幕府」の長崎奉行には オランダ語に怪しいところがあったのを 「山地オランダ人」と偽る (本来はドイツ人である為。オランダに山地はない) 出島内において開業。 1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、 西洋医学(蘭学)教育を行う。 日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義した。 代表として高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・ 小関三英・伊藤圭介らがいる。 塾生は、後に医者や学者として活躍している。 そしてシーボルトは、日本と文化を探索・研究した。 また特別に長崎の町で診察することを唯一許され感謝された。 |
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(5) 日本へ来たのは、 プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説も。 その間に日本女性の楠本滝との間に、 娘楠本イネをもうける。 アジサイを新種記載した際にHydrangea otakusaと命名 (のちにシノニムと判明して有効ではなくなった) これは滝の名前をつけていると推測される。 1828年に帰国する際、 収集品の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、 国外追放処分となる(シーボルト事件)。 当初の予定では帰国3年後に再来日する予定だった。 シーボルトは、日本に残す妻滝と娘いねの身を心配して、 彼女たちに財産を残し、 2人の世話を門弟の二宮敬作や高良斎らに頼んだ。 文政12年(1829)シーボルトを乗せたオランダ船は出島を離れていった。 やり残した日本の調査・研究を 助手ビュルガーや門弟たちに頼んでいった。 オランダに帰り着いたシーボルトは、 滝といねの安否を気遣って手紙を送り、 滝も手紙や母子の姿を描いた螺鈿合子の嗅ぎ煙草入れを送った。 |
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古美術崎陽HP http://www.kiyou.net/