@ 『司馬江漢』(しば こうかん) 延享4年(1747)〜文政元年(1818) 江戸時代の絵師、蘭学者。 浮世絵師の鈴木春重は同一人物。 本名は安藤峻。 俗称は勝三郎、後に孫太夫。 字は君嶽、君岡、司馬氏を称した。 また、春波楼、桃言、無言道人、西洋道人と号す。 |
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A 安藤氏の子として延享4年(1747)江戸四谷に生まれた。 名は安藤吉次郎という。 のち唐風に姓を司馬、名を峻に改めた。 字は君嶽、江漢は号である。 生まれつき絵を好み、 宝暦11年(1761)15歳の時父の死を切っ掛けに、 表絵師の駿河台狩野派の狩野洞春(美信)に学ぶ。 しかし次第に狩野派の画法に飽きたらなくなり、 明和半ば頃おそらく平賀源内の紹介で 南蘋派の宋紫石の門に入る。 ここで漢画の画法を吸収しつつ、 紫石と交流のあった鈴木春信にも学んで浮世絵を描いた。 ただし、初めに狩野派を学んだのは確かだが、 師事した順番は諸説あってはっきりしない。 後に洋風画を描くに至った。 源内と接点があり、 彼を通じて前野良沢や 小田野直武に師事したとも言われている。 享年72。 墓所は豊島区西巣鴨の染井墓地、慈眼寺墓域。 法名は桃言院快栄寿延居士。 歌川広重の名作「東海道五十三次」 のオリジナルを描いたという説があるが定かではない。 |
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B 明和末年頃、鈴木春信の名前で錦絵を出す。 そして初期には鈴木春重名で、 明和7年(1770)に没した鈴木春信の 贋作絵師として安永初年頃まで活動。 春信に師事して、版下絵を描いていたとも。 安永初年から末年にかけて次第に独り立ちし、 蕭亭あるいは蘭亭の名で、肉筆画を残している。 自著『春波楼筆記』によると、 春信の死後、春信の落款で偽絵を描いていたが、 後に春重と署名するようになったと記されている。 春信の落款時代には、 背景に極端な遠近法を使用し、 浮絵の画法を取り入れていたが、 春重落款の作品ではより春信風になっている。 |
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C 寛永初期、日本における洋風画の開拓者として 秋田の小田野直武とともに重要な画家。 直武の作品が、遠近法、 明暗法などの西洋画法をとりいれつつ、 画材は伝統的な絵具と墨とを使用していたのに対し、 江漢は荏胡麻の油を使用して描いたことで特筆される。 江漢は、西洋画法と油彩の技法を駆使して 富士などの日本的な風景を描き、 それを各地の社寺に奉納することによって、 洋風画の普及に貢献した。 現存の代表作の「相州鎌倉七里浜図」は もともと江戸の芝・愛宕山に奉納したもの。 社寺の壁などに掲げられる絵馬は傷みやすいものだが、 早い時期に社殿から取り外して保存されていたため、 保存状態がよい。 蝋油を使った蝋画の工夫などもしている。 日本最初の銅版画(エッチング)家でもあり、 天明3年(1783)その制作に成功した。 天文・地学、動植物など西洋博物学、 自然科学に興味を持ち、日本に紹介した。 『和蘭天説』や『刻白爾(コッペル)天文図解』 などといった啓蒙書も残した。 |
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D 晩年人付き合いが煩わしくなり、 文化10年(1813)自分の死亡通知を知人達に送った。 どうしても外出せねばならなくなり、 案の定知人と遭遇するや 返事もせず逃走するもごまかしきれず、 「死人は声を出さぬ」と答えた。 また、文化5年(1808)以降は 九歳加算した年を記し世を欺いた。 これは「九」という数字は、 周易においては陽の極地を表し、 『荘子』寓言編に 「九年にして大妙なり」 という言葉があることから、 江漢は「九」に大悟の心境を込めて加算したと考えられる。 |
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E 補足〜司馬江漢と生月捕鯨 天明8年(1788)から翌寛政元年(1789)にかけて、 江戸を発ち長崎旅行をおこなった。 その帰路、平戸を経て天明8年の暮れに 生月島に渡り、翌正月4日まで滞在している。 その間は鯨組主である益冨家に逗留し、 実際に鯨船に乗って 捕獲や解体・加工の様子を観察したり、 松本で大敷網の鮪漁を見物したり、 島の最高峰である孩子岳に登ったりしている。 その時の見聞の内容は、 寛政6年(1794)に刊行された『西遊旅譚』 (後に『画図西遊譚』という名称で再刊行される) や『西遊日記』(文化12年・1815)に紹介された他、 油彩画の『捕鯨図』水墨淡彩の『捕鯨図巻』 などにも反映されている。 また千葉市美術館に収蔵されている 『日本風景図』についても、 生月島の松本海岸から見た風景を 左右反転させたものである可能性が高い。 『西遊旅譚』の遠近法を駆使した肉納屋図などは、 のちの捕鯨図説にも大きな影響を与えている。 |
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