@ 文政5年(1823)〜明治35年(1902) 日本の武士・佐賀藩士。 明治期には元老院議員となる。 日本赤十字社の創始者。 官職は枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿。 勲等は勲一等。 爵位は伯爵。 称号は日本赤十字社名誉社員。 佐賀の七賢人に挙げられている。 名は栄寿、栄寿左衛門。 子は佐野常羽。 |
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A 佐賀藩士下村三郎左衛門(充贇)の5男として 肥前国佐賀郡早津江村に生まれる。 幼名は鱗三郎。 天保2年(1831)に佐賀藩医佐野常徴の養子となり、 佐賀藩の前藩主から栄寿の名を授かった。 佐賀藩校・弘道館に学び、 天保9年(1838)には江戸へ遊学、古賀?庵に学ぶ。 天保10年(1839)佐賀に帰り、 弘道館で考証学を、 松尾塾で外科術を学ぶ。 |
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B 天保13年(1842)佐野家の養女駒子と結婚する。 弘化3年(1846)京都で広瀬元恭の時習堂に入門 嘉永元年(1848)には大坂の緒方洪庵の適塾で学び、 さらに紀伊で華岡青洲が開いた春林軒塾に入門する。 適塾では大村益次郎他 明治維新で活躍する多くの人材と知遇をうる。 嘉永2年(1849)江戸で伊東玄朴の象先堂塾に入門し、 塾頭となる。 江戸では戸塚静海にも学んでいる。 この頃に勤皇運動に傾倒。 藩の知れ急遽佐賀に戻るよう命じられている。 |
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C 学問を積んだ常民は、江戸からの帰途、 からくり儀右衛門と呼ばれた田中久重らの 優秀な技術者たちを佐賀藩に招く。 嘉永6年(1853)佐賀に帰り、 佐賀藩の精煉方頭人となり、 蒸気機関の研究などさまざまな理化学実験を行う。 藩主鍋島直正から「栄寿左衛門」の名を授かる。 安政2年(1855)に長崎の海軍予備伝習に参加。 同年8月に幕府が長崎海軍伝習所を開設し、 佐賀藩から常民ら48名が第一期生として参加 造船・航海・砲術などの習得に励む。 この頃に藩主鍋島直正へ海軍創設の必要性を説き、 自ら海軍所の責任者となる。 |
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D 安政4年(1857)佐賀藩が オランダから購入した飛雲丸の船将となり 安政5年(1858)には三重津海軍所を創設 監督となる。 幕府の軍艦観光丸の船将としても 優れた指導力を発揮。 文久3年(1863)三重津海軍所で 幕府注文の蒸気鑵(ボイラー)を製作する。 |
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E 慶応3年(1867)パリ万国博覧会に 佐賀藩団長として参加。 江戸幕府のほか、佐賀藩と薩摩藩が出展 日本人が初めて参加した万国博覧会でした。 欧米の先進性と 博覧会の重要性を認識させるきっかけとなった。 その万博会場で国際赤十字の組織と活動を見聞。 スイス人アンリー・デュナンが提唱した 赤十字との出会いは その後の人生に大きな影響を与えます。 オランダやベルギー、ドイツ、 イギリスにも足を伸ばし、 さらに国際的な視野を広げ オランダに日進の建造を発注。 西欧諸国の軍事、産業、造船術などを視察して 翌明治元年(1868)に帰国。 佐賀藩派遣のご用商人、深川長右衛門が 土産として持ち帰ったイギリス製サラダ油とガラス皿 常民が持ち帰ったカタログ類などが 現在も保管されています。 |
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F 明治3年(1870)3月〜10月までの8ヶ月間、 兵部省兵部少丞に就任し、 日本海軍の基礎創りに尽力する。 しかし他の海軍担当官との関係は悪く 奮闘は空回りし罷免。 明治4年(1871)初代燈台頭に就任し、 外国人技術者R.H.ブラントンとともに 洋式燈台の建設にあたる。 明治5年(1872)博覧会御用掛に就任し、 同年3月に日本初の博覧会を湯島聖堂で開催。 明治6年(1873)ウィーン万国博覧会事務副総裁に就任。 多数の技術者を率いて渡欧し、 ウィーン万博に参加。 その貴重な体験をまとめた膨大な報告書は、 日本の近代化の指針となり 日本の伝統的な芸術・文化の発掘や 保護・育成の情熱は、 内国勧業博覧会の開催へとつながり、 日本の博物館事業を発展させることにもなりました。 明治8年(1875)元老院議員となる。 |
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G 明治10年(1877)2月に西南戦争が起こり、 敵味方の区別なく 戦場で負傷した将兵を看護する赤十字社の知識を元に、 「博愛社設立請願書」を政府に提出するが不許可。 5月に熊本で有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を得る。 博愛社総長に東伏見宮嘉彰親王が就任。 明治11年(1878)大給恒らと博愛社の総副長となる。 明治12年(1879)日本美術の海外流出を防ぐために、 龍池会(日本美術協会)と呼ばれる美術団体を発足し、 会頭に就任する。 亡くなるまで会長を務め、 芸術家の保護と育成に力を尽くす。 同年10月には中央衛生会会長に就任する。 |
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H 明治13年(1880)大蔵卿に就任するが、 翌明治14年(1881)の政変で辞任する。 明治15年(1882)元老院議長に就任する。 明治16年(1883)大日本私立衛生会が発足し、 会頭に就任する。 明治20年(1887)博愛社を日本赤十字社と改称し、 初代社長に就任する。子爵。 明治21年(1888)枢密顧問官に就任する。 明治25年(1892)第1次松方内閣で農商務大臣に就任する。 明治27年(1894)の日清戦争や、 明治33年(1900)の北清事変で 日本赤十字社は、戦時救護活動を行う。 明治28年(1895)伯爵。 明治35年(1902)東京の自宅で死去、80歳。 死に際して勲一等旭日桐花大綬章が贈られる。 墓所は青山墓地。 |
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I 補足(1) 佐賀藩では、精煉方頭人の常民と 京都からの4人の技術者を中心に 様々な理化学実験や先進技術の研究開発が行われていた。 「田中久重(からくり儀右衛門)」 「石黒寛次」「中村奇輔」 「田中儀右衛門(田中久重の養子)」 安政4年(1857)常民は中村奇輔らとともに 精煉方製作の電信機をもって薩摩に赴いた。 中村奇輔製作の電信機として諫早の旧家に伝わる。 長崎に入港した外国船の情報を 緊急に佐賀藩に伝えることを『白帆注進』と呼んだ。 入港した外国船などのスケッチも残るが、 常民が船将となった観光丸も描かれている。 |
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J 補足(2) 嘉永7年(1854)佐賀藩は 長崎警備の必要性から百万馬力の蒸気船の購入を計画。 長崎でのオランダ式小型船建造にあたり、 その素材や費用、職人の手配を依頼。 佐賀藩は安政5年(1858)三重津に御船手稽古所を設置。 佐賀藩海軍の出発点となった。 長崎海軍伝習所で伝習を受けた常民らが中心となり 三重津海軍所で佐賀藩独自に藩士への海軍伝習が行われていた。 海軍所には13隻の堂々たる艦船がマストを並べ、 その偉容を誇り、佐賀藩の海軍の要となった。 安政6年(1959)の常民直筆の計算メモが残っている。 墨と鉛筆で算用数字による計算のあとが見られる。 |
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K 補足(3) 明治政府が誕生してまもなく 旧武士階級の不満が各地で暴発、 明治10年(1877)には西南戦争が勃発。 常民のもとにはこの凄惨な戦闘の様子が日々伝わります。 かつて適塾で学んだ人命尊重の精神、 ヨーロッパで出会った赤十字の理念を忘れなかった常民は、 救護組織の必要性を唱え、 「博愛社設立請願書」を政府に提出します。 しかし、「敵の傷者も差別なく救う」 という博愛社設立の趣旨は、 当時の政府には受け入れられません。 戦場となった熊本に出向き、 政府軍の総指揮官有栖川宮熾仁親王に直接嘆願し、 その熱意により許可を受ける。 まさに日本の赤十字事業の幕開け。 徴兵制による近代的装備の軍隊が 反政府軍を鎮圧。 激闘により両軍におびただしい数の死傷者をだす。 常民が佐賀で最初に雇い入れた博愛社救護員の一人、 江原益蔵は救護活動記録を残している。 博愛社の救護活動は、 熊本・長崎・鹿児島・宮崎の各地の軍団病院などで行われた。 博愛社常議員の松平乗承も 西南戦戦争時の救護活動状況と、 今後の博愛社事業の展望を筆録している。 |
![]() 佐野婦人 |
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L 補足(4) 博愛社の規則に基づき、 一定の拠出をする者が社員として認められた。 明治19年(1886)看護婦養成の実習の場として 博愛社病院が開設。 その後、日本赤十字社病院となり、 移転拡張しながら病院事業を発展させていった。 看護婦養成のための生徒は明治20年(1890) 雑誌や新聞などで10名が募集され、 選抜試験が行われた。 養成は日本赤十字社病院で行われ、 修学年限は1年半であった。 |
![]() 赤十字発祥地の碑 |
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M 補足(5) 明治19年(1886)日本は ジュネーブ条約(赤十字条約)に加入。 翌年、博愛社は日本赤十字社に改称され、 国際赤十字に加盟。 常民は日本赤十字社の初代社長に就任。 日本赤十字社は、 その後、磐梯山噴火の災害救護、 日清戦争の戦時救護など、 さまざまな場で活躍を展開、 明治32年(1899)には 病院船博愛丸・弘済丸を建造。 明治35年(1902)日本赤十字社創立25周年式典が盛大に挙行され、 常民は皇族以外で初めて名誉社員に推薦された。 その2ヵ月後、 80年の生涯の幕を静かに閉じた。 日本赤十字社の社紋は、 社章の図柄を迷っていた常民に、 昭憲皇太后が簪の絵柄(桐竹鳳凰)を示して決定された という逸話が残されている。 |
![]() 佐野常民記念館 |