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 B-musume                  次へ         シーボルトの娘〜楠本イネ
(1)楠本イネ

文政10年(1827)〜明治36年(1903)

日本人初の女性で西洋医学を学んだ産科医。

オランダ商館医であった

「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」

の娘である。「楠本」は母・楠本瀧の姓。



母の瀧(お滝)は、商家の娘であったが、

当時、出島へ入る事が出来た女人は遊女に限られており、

丸山町遊女で源氏名「其扇」として出島に出入りし、

シーボルトとの間にイネを産む。

イネの出生地は長崎銅座町とされており、

シーボルト国外追放まで、出島で居を持った。

当時の出島での家族団欒の様子が

川原慶賀の絵画に残っている。

父シーボルトは文政11年(1828年)、

国禁となる日本地図や

数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の

国外持ち出しが発覚し(シーボルト事件)、

イネが2歳の時に国外追放となった
(2)楠本イネ

イネは、シーボルト門下の

宇和島藩の二宮敬作から医学の基礎を学び、

石井宗謙から産科を学び、

村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。

安政6年からは

ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから

産科・病理学を学び、

文久2年からはポンペの後任

アントニウス・ボードウィンに学んだ。

後年、京都にて大村が襲撃された後には

ボードウィンの治療のもと、

大村を看護し、その最期を看取っている。

1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約によって

追放処分が取り消され、

1859年に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、

西洋医学(蘭学)を学ぶ。

父シーボルトは、長崎・鳴滝に住居を構え昔の門人や

娘・イネと交流し日本研究を続け、

1861年幕府に招かれ外交顧問に就き

江戸でヨーロッパの学問なども講義している。

この間、シーボルトは家政婦として

母お滝・イネが雇ったシオとの間に子をもうけ、

イネを深く失望させる
(3)楠本イネ

ドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、

混血児であったゆえの差別を受けながらも

宇和島藩主伊達宗城から厚遇された。

「失本イネ」という名を楠本伊篤と改める。

失本とは、父シーボルトの名を漢字に当てたものであった。

明治4年(1871)異母弟にあたるシーボルト兄弟

(兄アレクサンダー、弟ハインリッヒ)

の支援で東京は築地に開業したのち、

福沢諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、

金100円を下賜され

明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会うなど、

その医学技術は高く評価された。

異母弟ハインリッヒとその妻・岩本はなの

第一子の助産も彼女が担当した。

明治8年(1875)に医術開業試験制度が始まり、

女性であったイネには受験資格がなかったためと、

晧台寺墓所を守るため、

東京の医院を閉鎖、郷里・長崎に帰郷する
(4)楠本イネ


明治17年(1884)医術開業試験の

門戸が女性にも開かれるが、

既に57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断、

以後は産婆として開業する。

62歳の時、娘高子一家と同居のために

長崎の産院も閉鎖し再上京、

医者を完全に廃業した。

以後は弟ハインリッヒの世話となり余生を送った。

1903年、鰻と西瓜の食べ合せによる食中毒のため

東京の麻布で亡くなる。

享年77。墓所は長崎市晧台寺にある。

イネは生涯独身だったが、

石井宗謙との間に、娘の楠本高子(タダ)がいる。

楠本高子の懐妊は、

石井宗謙にレイプされたためのものである。

彼女は師事していた石井宗謙に深く失望し、

一人出産し、生まれてきた私生児を

「ただの一度で出来た子・タダ」と名付けた。

後年、タダは宇和島藩主伊達宗城により、

改名を指示され「高」と名乗る

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