@ 頼 山陽(らい さんよう) 安永9年(1780)〜天保3年(1832) 幼名は久太郎(ひさたろう) 諱は襄(のぼる) 字は子成 号 山陽、三十六峯外史 江戸時代後期の歴史家、漢詩人、文人。 芸術にも造詣が深い。 また陽明学者でもあり、 大塩平八郎に大きな影響を与えた。 安政の大獄で処刑された頼三樹三郎は三男。 中国文学者の頼惟勤(らい つとむ)は子孫。 |
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A 山陽の祖父頼惟清は 安芸国竹で紺屋(染物業)を営む町人でした。 父の頼春水は幼い頃から詩文や書に秀で 明和3年(1766年)には大坂へ遊学。 尾藤二洲や古賀精里らと共に朱子学の研究を進め 大坂江戸堀北に私塾「青山社」を開いた。 居宅を「春水南軒」と名づけた。 安永9年(1780)ここで山陽が生まれた。 母もまた儒医飯岡義斎の長女静子で 梅しの雅号を持つ文人です。 |
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B 天明元年(1781)広島藩の学問所創設にあたり 儒学者に登用されたため転居。 山陽は城下の袋町で育った。 父と同じく幼少時より詩文の才があり また歴史に深い興味を示した。 春水が江戸在勤となったため 叔父の頼杏坪に学び 18歳になった寛政9年(1797)には江戸に遊学し、 父の学友・尾藤二洲に師事した。 |
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C 青少年期の山陽は病弱で 精神的に不安定だったようです。 帰国後はその傾向が益々強まり 寛政11年(1799)広島藩医・御園道英の娘 淳子と結婚しましたが 翌寛政12年(1800)大叔父伝五郎の 弔問のために竹原へ向かう途中突如脱藩。 京都の福井新九郎(後の典医・福井晋)の家に潜伏。 しかし発見されて広島へ連れ戻され、 廃嫡のうえ自宅へ幽閉される。 |
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D 竹原から従弟の景譲(叔父春風の子)が 養子に迎えられました。 妻淳子は藩法によって離縁され 同年に生まれた長男聿庵(1801〜56)は 頼家に引き取られた。 幽閉は3年間に及び その後も2年間の謹慎生活が続き これがかえって山陽を学問に専念させ、 学業は進み、著述に明け暮れた。 『日本外史』の初稿が完成したのもこのときである。 |
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E 謹慎を解かれたのち、 文化4年(1807)には竹原に遊んで、 尾道の女性画人平田玉蘊に出逢う。 しかし平穏な日常に満足することができず 父春水の友人で儒学者の菅茶山より招聘を受け 茶山が開いていた廉塾の都講(塾頭)に就任。 文化6年(1809)山陽30歳。 廉塾での山陽は茶山の代講や 詩集『黄葉夕陽村舎詩』の校正を担当。 茶山は山陽を塾の後継者として期待し 福山藩への出仕や妻帯を勧めました。 が、その境遇にも満足できない山陽は 学者としての名声を満天下に轟かせたいとの思いから 2年後に京都へ出奔した。 |
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F しかしこの上京が広島藩に無届であったために 第二の脱藩事件ともなりかねなく、 茶山の意向によって上京したという形をとって落着。 文化8年(1811)32歳以後は没するまで 洛中に居を構え開塾する。 小石元瑞の養女梨影と再婚し その後三男一女 辰蔵(早世)・支峯・三樹三郎・陽子 が生まれました。 |
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G 文化13年(1816)父・春水が亡くなると その遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓。 翌々年には九州旅行へ出向き、 広瀬淡窓らの知遇を得ている。 長崎にも立ち寄り、 天草洋の風景を詠んだ 「天草洋に泊す(雲か山か)」の詩をつくる。 山陽は京都に在って営々と著述を続け、 文政9年(1826)には彼の代表作となる『日本外史』が完成。 ときに山陽47歳。 翌年には老中・松平定信に献上された。 |
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H 山陽の周辺には、京阪の文人が集まり、 一種のサロンを形成した。 その主要メンバーは、 父・春水とも関係があった木村蒹葭堂と 交友した人々の子であることが多く、 大阪の儒者篠崎三島の養子・小竹、 京都の蘭医小石元俊の子・元瑞、 大阪の南画家岡田米山人の子・半江、 京都の浦上玉堂の子・春琴が挙げられる。 さらに僧雲華、尾張出身の南画家・中林竹洞、 やや年長の先輩格として陶工・青木木米、 そして遠く九州から文人画家・田能村竹田も加わり、 彼らは盛んに詩文書画を制作した。 |
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I 山陽はその後も文筆業にたずさわり 『日本政記』『通議』等の完成を急いだが、 天保年間に入った51歳ごろから健康を害し 喀血を見るなどした。 病の不治を悟り、門人の東山義亮に 肖像画を描かせて自賛の文を作っている。 容態が悪化する中でも著作に専念したが、 天保3年(1832)ついに卒した。享年53。 山田風太郎著『人間臨終図鑑』によれば 山陽は最後まで仕事場を離れず、 手から筆を離したのは実に息を引き取る数分前であり 死顔には眼鏡がかかったままであったという。 また、遺稿とされる「南北朝正閏論」 (『日本政記』所収)の自序には これを書く決意をしたのは 9月12日の夜であったことを記している。 遺言により京都東山の長楽寺に葬られた。 |
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J 文政3年(1820)司馬遷の『史記』は 「十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列伝」の 全百三十巻から成るが、 頼山陽はこれを模倣して 「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の 著述構想を立てている。 『史記』にあっては真骨頂というべき「列伝」に 該当するものがないが 前記の十三世家にあたる『日本外史』(全二十二巻)が 列伝体で叙せられ、 『史記』の「列伝」を兼ねたものと見ることもできる。 |
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K 書名を「外史」としたのは、 「在野の人、草莽が、 自己の責任と見識によって、 自由に書いた歴史という意味」 である。 誰にも解るような国史を書いて、 国史を日本人全体のものにしたい と思っていたのです。 父・春水もかつて「鑑古録」 という国史を書いていましたが、 勤皇に傾いたものだったので 幕府の咎めを恐れた藩に中止させられます。 山陽は当時9歳ですが父の悔しさを知り 志を継ぐことになるのです。 |
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L 『日本外史』は武家の時代史であるが、 史実に関しては先行諸史料との齟齬が多く、 専門の学者達からは刊行当初から散々に批判された。 豊後の儒者帆足万里は、 「頼とやらの書いた書物は、 文体は俗っぽく、且つ和臭だらけで 文法的に間違いが多いのは勿論、 考証は杜撰で、議論も公平でなく、 味噌甕のふたにしか使えない」と、 その文体、文法、考証、議論すべてを批判している。 |
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M 実際には文法的にミスが多かったわけではなく、 根幹ではしっかりとした古典中国語の文法を 踏まえているが、語法、語彙レベルで 日本語の影響が見られることが問題にされた。 これは日本外史が日本のことを扱っているため、 朝鮮や越南において 地元のことを扱った古典中国語文書同様、 その地独自の用語や概念はそのまま用いるほかなかった ことが理由とされている。 また、文体が俗っぽいという批判に対しては、 保岡嶺南が「漢字をあまり知らない武人俗吏でも 読めて内容をつかめる」と高く称えたように、 その平明さを評価する声もある。 文体、文法の問題については、 キリスト教暦1875年に清国で日本外史が出版されたとき、 本場の文人達からも 「左伝や史記に習った風格のある優れた文章」 であると賞賛されている。 |
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N 歴史考証の杜撰さや議論の偏りについては、 明白であり、史書というよりは歴史物語である。 だが幕末の尊皇攘夷運動に与えた影響は甚大であった。 また「五書・九議・二十三策」 にあたる政治経済論の『新策』は、 広島在住時の文化元年(1804)に完成したが、 後これを改稿し『通議』とした。 天皇中心の歴史書『日本政記』(全十六巻)は 「三紀」に相当し、没後門人の石川和介が、 山陽の遺稿を校正して世に出した。 伊藤博文、近藤勇の愛読書であったことでも知られる。 頼山陽的な歴史観、国家観は、 幕末から維新、戦前の大日本帝国期に 大きな影響を及ぼした。 |
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O なお山陽は詩吟・剣舞でも 馴染み深い「鞭声粛粛夜河を過る〜」で始まる 川中島の戦いを描いた漢詩 『題不識庵撃機山図』の作者としても有名。 同作品は死後刊行された 『山陽詩鈔』(全8巻)に収められている。 ほか、古代から織豊時代までの歴史事件を 歌謡風に詠じた『日本楽府』がある。 秦、漢に代表される中国王朝の傾きに対比して、 日本の皇統の一貫を強調している。 |