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幕末期 長崎で活躍した人物 
 b-oruto    
「ウィリアム・ジョン・オルト」   


長崎の歴史のページ
ウィリアム・ジョン・オルト(1)

1840〜1905

英国アイルランド出身

早くに父親を亡くし、母親を助けるために

12歳の若さで貿易船に乗り込みます。


安政6年(1859)19歳になっていた彼は

中国で関税局に就職しましたが

日本の開国を知りいち早く来日

長崎にてオルト商会を設立。

英国領事館の記録には「1859年10月27日来崎」と明記


幕末の動乱期に

土佐を始め西日本諸藩と交渉を深め、

中古船や機材の輸入

長崎の有力商人の娘・大浦慶と提携して

九州一円から生茶を買い求め輸出。

わが国最初の製茶工場を設け

製茶業で巨額の利益を得ます。


オルト商会の事務所は、

大浦海岸通り7番地に建設され

2階建て洋館の堂々たる姿が多くの古写真に残されています


初期貿易の先頭に立つかたわら、

居留地自治会の初代役員、

プロテスタント教会の理事など、

居留地社会の中で中心的な役割を果たしました。


ウィリアム・オルトと妻エリザベスは元治元年(1864)に

オーストラリアで結婚し、

まだ新婚気分が醒めないうちに長崎にやってきました。

17歳のエリザベスは牛乳などが手に入らないと嘆いたという。

妻エリザベス(1847〜1923)と二人の娘との4人家族でした。



 「長崎は本当に美しいところで、

  これ以上美しい所を私は知らない」

 彼の妻エリザベスは、

 後の回想録に長崎の印象をこう書き残しています。


明治元年の秋、

彼は大阪に支店を新設するため

家族と共に大阪の川口居留地に移り住み、

長崎の業務を同僚の英国人ヘンリー・ハントと

フレデリック・ヘリヤーに任せます。

その後大阪で1年半、横浜に2年間滞在しています。


明治4年(1871)に日本を後にします。

イギリス南部の町に大邸宅を構え、悠々自適の余生を送ります。


オルトは病弱でしたので

長崎にいる期間が短かったのですが、

もっと長く長崎にいたら

きっとグラバーやリンガーをしのぐ商人になったでしょう。


       古美術 崎陽
(2)

ウィリアム・オルトとその家族は

二度と日本の土を踏もことはありませんでした。

しかし、昭和60年(1985)にオルト家の血をひく人物

モンゴメリー子爵夫人が長崎を訪れました。

オルトのひ孫にあたります。



子爵夫人の祖母は、

ウィリアムとエリザベス・オルトの四女ナンシー。

友人からオルト邸が現存していると聞き

先祖の住宅を見たいという思いにかられたようです。


同夫人の長崎訪問で夫人の母親が

有名な小説家ダフネ・デュ・モーリエであると知られるようになりました。



グラバー園に残る〜旧「オルト邸」

オルト商会のウィリアム・ジョン・オルトの邸宅

元治元年(1864)〜明治元年(1868)の4年間居住

イギリス人の設計で

大浦天主堂やグラバー住宅を手掛けた天草出身の職人

小山秀之進が施工したものと言われている。


ベランダの高い天井を支えているタスカン様式の

列石柱(天草の石を使用)が印象的で、

三方にベランダをめぐらせた重厚な木造・外壁石積の建築。

裏手には当時の厨房・倉庫、

また、崖に造られた天然の貯蔵庫(年間を通して20℃前後)が

そのまま残されています。


前面ベランダ中央の切妻屋根のポーチ横には、

日本最古で最大級の木香バラが茂っている。


国指定重要文化財(昭和47年5月15日)指定



明治13年(1880)から2年間、

創立期の活水学院校舎として使用され、

その後はリンガーの長男の手に移り

長く住居として使われましたので

別にリンガー(兄)邸とも言われます。


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