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幕末期 長崎で活躍した人物 |
「大浦 慶」 (1) 文政11年(1828)〜明治17年(1884) 日本茶輸出貿易の先駆者 文政11年(1828)に油商の大浦太平次、佐恵の娘として生まれる。 後に賀古市郎右衛門の次男、大五郎(1818〜1837)が 婿養子として大浦家に入る。 しかし、慶が9歳のときに死亡。 大五郎の死後、幕末の動乱の中で 油問屋の危機が訪れる。 それに追い打ちをかけるように、 天保14年(1843)10月24日の夜に出火した大火で 今籠町・今鍛冶屋町・油屋町・今石灰町・新石灰町・ 高野平郷など家屋526戸が焼けるた。 大浦家もこの大火で大損害を受けた。 この時、慶は16歳。 慶は大浦家再興に尽くそうとした。 翌年、蘭学を学びに長崎にきていた 天草の庄屋の息子幸次郎(秀三郎とも)を婿養子に迎える。 しかし、慶はこの幸次郎が気に入らず、 祝言の翌日に追い出したと言われる。 以後、死ぬまで独身を貫きとおすこととなる。 そして自らが傾いた家業を建て直すべく先頭に立つ。 手がけたのは油ではなく、 出島のオランダ人と呉服の売買をやったり、 いろいろ手を出したようだ |
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(2) 嘉永6年(1853)に通詞品川藤十郎と協力し、 出島のテキストルというオランダ人に嬉野茶を託し、 イギリス、アメリカ、アラビアの三ヶ国へ 上中下の三等級に分けてそれぞれ、3斤ずつで 計9斤なのを9袋にわけ、3袋に梱包され送られたという。 この時、お慶は25歳であった。 その約3年後の安政3年(1856年)8月に イギリスの商人、W・J・オールトが テキストルに託したお慶の茶の見本を手に来航 巨額の注文をした。 嬉野茶だけでは足りず、九州一円の茶の産地を巡り、 やっとのことで、1万斤を集め、アメリカに輸出された。 これが日本茶輸出貿易の先駆けとなった。 当時、欧米では緑茶を飲む風習が盛んであったという。 1861年に南北戦争が勃発し、 一時的に輸出は停滞するが、 1865年に終結した途端、爆発的に増え、 翌年には長崎からの輸出はピークに達した。 安政から慶応にかけての約10年間は大浦家の全盛期であった。 日本茶輸出貿易に成功した慶は名が知れ渡り、 坂本龍馬、大隈重信、松方正義、陸奥宗光らと親交があったとされる。 独身を通した30代女盛りのお慶と 若い志士たちとの艶話もまことしやかに語られている。 この頃、お慶の財力は最も盛んであり 目的達成に燃える志士たちを 熱心に援助したことは事実である |
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(3) しかし、1860年代が終わろうとすると、 輸出に陰りが見えはじめる。 九州より大きい茶の産地である静岡からの 茶の輸出が増えていき、違う商品の貿易を考えていた。 おりしもの明治4年(1871)6月 熊本藩士の遠山一也が現れる。 遠山は品川藤十郎の通詞で イギリスの商人、オールト商会との 熊本産煙草15万斤の売買契約した この取引の保証人になってほしいと慶に嘆願した。 熊本藩から派遣されたと装い、 勝手に同藩の福田屋喜五郎の名を使い、 連署人として偽の印を押した証書を見せた。 品川もやたらと連判することを慶に勧めた。 やむなく保証人を引き受けたが、 それが不運のもととなった。 遠山に手付金3000両を差し出したが 期限になっても煙草が全く送ってこない。 そして、オールト商会からは手付金を返すように求められ、 熊本藩との交渉で 遠山家の家禄5ヵ年分に相当する約352両の支払いを受けたが、 オールト商会に納めることしかできなかった。 実は遠山は輸入反物で失敗し、 借金を返済するために慶を騙したのであった。 これが、後にいう遠山事件。 晩年のお慶は不遇であった。 明治5年(1872)1月、 慶はオールト商会から遠山、福田屋喜五郎と共に 長崎県役所に訴えられ、 慶自身も遠山と福田屋を訴えた。 7月から8月にかけての判決で、 遠山は詐欺罪で懲役10年の刑を受けるが 慶は連判したということで、 1500両ほどの賠償金の支払いをすることとなる。 負債の3000両(現在の価値でいえば約3億円)と 裁判費用及び賠償金を払うことになった。 お慶は毎月63両余・20ヵ月返済という形で弁償することになる。 これにより、大浦家は没落し、家財も差し押さえられてしまう。 明治17年(1884)当時県令であった石田英吉が 農商務省の農商務権大書記官であった岩山敬義に 慶が既に危篤状態であるため、 生きているうちに賞をあげてほしいと要請したところ、 4月5日に受賞の知らせを西郷従道から電報で伝えられ、 翌日に石田の使者が慶の家に出向いて受賞をしらせた。 明治政府は慶に対し、 日本茶輸出貿易の先駆者としての功績を認め、 茶業振興功労褒賞と金20円を贈った。 その1週間後、慶は57歳で生涯をとじたのであった。 慶は死ぬまでに借金を完済していたとされる。 墓所は長崎市高平町曇華院跡大浦家墓地 |
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(4) エピソード〜1 明治12年(1879)6月に ユリシーズ・グラントが長崎に寄港した際は 国賓として、各県令らと共に慶が艦上に上った。 その時、艦上にいた国賓で女性は慶だけであったという。 お慶の屋敷跡は長崎市油屋町で、敷地は426坪。 長い塀の中の庭園は樹木や石燈籠の配置も風趣に富み、 平庭では長崎一と言われていた。 その一部は橋本和太八氏邸へ移築されている。 大浦家は代々、油屋町で油の商いをする家だった。 江戸時代初期、上方から長崎へ来たとも言われている。 長崎市高平町の高台に大浦家墓所がある。 墓碑は全部で11基。 お慶の墓が一番新しい。 生年と没年の年月日がきちんと刻んである。 昭和48年春、この墓前で、「大浦お慶顕彰会」が開かれた。 司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』でお慶が評判になっていた。 お慶は、長崎では知らぬ者のない女傑であり大商人となった。 そこへ集まってきたのが幕末の志士たち。 そのなかには坂本竜馬もいた。 グラバーや薩摩など各藩の志士との密談の場となり まだ若くて海のものとも山のものともわからない彼らを 匿い、面倒をみたのである。 当時の女性としては珍しく 外国人を相手に商売で成功したお慶は、 国際感覚を持ち合わせ、なおかつ商才にたけていたに違いない。 人に垣根を作らない、そんな感覚を持つ人柄と、 相手が誰であれ、人として信義を貫こうとした生き方こそ 女傑として語り継がれる最大の理由でしょう |
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(5) エピソード〜2 幕末に海外へ密航しようとした人は、 吉田松陰を初め、たくさんいる。 だが女性となると、あまり思い浮かばない。 長崎の大浦お慶は、その中で異彩を放つ。 密航後、大貿易商になり、維新の志士を支える女傑となる。 事実確認の資料は無いが、まことしやかに語られている話。 ちょうど浦賀にペリーが来航し、 長崎にもロシアのプチャーチンが軍艦を引き連れて来航。 世相は大きく動いていたとはいえ そのために海外視察を決行したことは大胆極まりない。 大きな箱に身を隠してオランダ船に乗り込んだのだった。 そして訪れたのは、上海にインド。 この時代に商機ありと命懸けの試みを行ったことは感嘆の一言。 そして無事帰国すると、テキストルに託して 肥前の嬉野茶の見本をアメリカ、イギリス、アラビアの3国に送る。 35カ月後に巨額の注文が舞い込む。 とても、調達できる量ではない。 しかし、お慶は諦めずに九州一円を走り回り 6000キロほどをかき集めてアメリカに輸出する。 おかげで九州はお茶の一大生産地へと発展した。 また、自宅の裏に製茶所や製茶工場をも建設している。 長崎におけるお茶の歴史は古く、 平安時代末期、遣唐使の時代に 禅僧・栄西が大陸から平戸の地に 禅とお茶を持ち帰ったのがはじまりで、 それらが後に本格的なお茶の栽培として、 全国各地に広まったといわれている。 特に15世紀に釜煎りによる製茶法が西九州に伝えられると、 東彼杵町で盛んに栽培されるようになり、 その後、元禄年間(1688〜1704)に 大村藩主の奨励によって栽培が拡大し、 茶業の基礎が作られた。 日本茶が海外へ輸出されたのは、 平戸に来航したオランダ東インド会社によって ヨーロッパに向け船積みされたのが最初で、 鎖国時代、唯一の窓口だった長崎から オランダ人によって日本茶が世界へ伝わっていった。 そして、幕末から明治にかけては、 九州各地の釜煎り製玉緑茶が集められ、 長崎から盛んに輸出された。 お慶は、海外へ見本を送るという当時では斬新な発想と 等級別に梱包するという細やかな心配りを持っていたようだ。 お慶の茶貿易の成功のお陰で九州の茶業は発展する |
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(6) エピソード〜3 遠山事件では、 お慶の製茶貿易商としての道を切り開く際に尽力した 阿蘭陀通詞・品川藤十郎が関与していた事実が 後の研究によって明らかになった。 その上、騙した側が士族や役所関係者だったため 結果的にお慶一人が不当な責任を負わされることになった。 お慶は判決後、 品川藤十郎を告訴する口上書を県に提出している。 県はこの告訴を無視して取り上げなかったが、 お慶の公正な裁判を望む心情が伝わる。 鎮西大社諏訪神社の秋の大祭「長崎くんち」で、 踊町の町印として先頭に立ち、 華麗な円舞を見せる傘鉾。 油屋町の傘鉾は、 明治初年、お慶が茶貿易で財を成し、京都で作らせたものです。 昨年の奉納の際にも登場しました。 この傘鉾を一手に引き受けて出したお慶は 町民から慕われていたことだろう。 ダシ(飾り)は白木の三宝の上に稲穂を配した長熨斗(ながのし)。 熨斗おさえに金色の宝珠。 輪は〆縄飾り。 前日(まえび)の垂れは塩瀬(絹織物)に金糸にて三社紋刺繍。 後日(あとび)は真紅の塩瀬に金糸にて波、日の出を刺繍 |
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古美術崎陽HP http://www.kiyou.net/