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                        「大村純熈」        歴史のページへ


                                  
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大村純熈(おおむらすみひろ)

文政13年(1831)〜明治15年(1882)

肥前大村藩の第12代・最後の藩主。

修理(通称) 利純(初名)

従五位下、従三位、丹後守、贈従二位

蘭学に通じ文武を奨励した。

幕末に長崎奉行を拝命し、

佐幕と尊王にゆれたが

倒幕の中心的役割を果たす。

A
文政13年(1830)第10代藩主・大村純昌の

十男として玖島城で生まれる。

弘化3年(1846)に兄で

第11代藩主である大村純顕の養子となり、

兄が病気で隠居すると、

翌弘化4年(1847)に家督を継いで

第12代藩主となった。

兄純顕の嫡子が幼年のため、

嫡子元服のあかつきには、藩主を譲る、

と言う約束のもと、藩主となる。
B

藩医長与俊達の蘭方医学導入の意見を聞き、

自らも蘭学に興味を持ち、

長崎に近いという地理的好条件もあって、

どんどん西洋学に惹かれ

文武や学問を奨励します。

上海へ視察団を派遣し、

当時の中国の様子に憂い、

領内に砲台を築く。



C
文久2年(1862)には平戸藩と同盟を結ぶ。

幕末期は藩内で佐幕派と尊王派が対立し、

文久3年(1863)に長崎奉行に任じられると

佐幕派が台頭した。

しかし尊王派はこれに対して改革派同盟を結成、

元治元年(1864)長崎奉行辞任により逆に尊王派が台頭した。

慶応3年(1867)改革派同盟の

勤皇派である大村三十七士の盟主

家老針尾九左衛門・松林飯山らが暗殺され

「小路騒動」と呼ばれた闘争を契機に

純熈は佐幕派を処罰し、

藩論が一気に尊王倒幕へと統一、

在郷家臣団を含む倒幕軍が結成された。

『大村騒動』と呼ばれます。




D
以後、薩摩・長州藩などと共に

倒幕の中枢藩の一つとして活躍

戊辰戦争では東北地方にまで出兵。

この功績により、明治2年(1869)

賞典禄3万石を与えられ、

版籍奉還により大村藩知事に任じられた。

明治4年(1871)廃藩置県で藩知事を辞職。

明治15年(1882)従三位に昇叙も

1月13日に死去。享年53。

明治36年(1903)に従二位を追贈された。

E
補足〜1〜大村家(1)

正暦5年(994)藤原直澄(なおずみ)が、

寺島に上陸して久原城に本拠をかまえ

大村氏を名のり、

以来14代500年近く久原城を居城とし、

平時は乾(いぬい)馬場の大村館に居住したとされ、

この間、京都大番役、

鎌倉幕府の地頭をつとめ、

文永の役、弘安の役の出征、

南北朝時代は南朝のために働くなど、

西国の武将として名をあげたと記してあります。
 
他の史料によると異説があり、

大村氏の先祖は平姓で、

はじめ肥前国藤津郡に本拠をおいたともいわれています。

F
補足〜2〜大村家(2)

大村家は、秀吉の九州征伐時に旧領を安堵され、

徳川政権下でもそのまま受け継いでいった

古い地大名である。

藩祖の大村喜前の父、大村純忠は

長崎を開港し南蛮貿易をおこない、

天正遣欧少年使節をローマへ派遣しました。

キリシタン大名としても知られ、

禁令後も領内のキリシタン取締りには苦慮。

しかし、三代大村純信の相続のときには

幕府から目こぼしを受け、

次ぎの大村純長当時

勘定奉行を勤めていた伊丹勝長の子を

迎えるにあたっても、幕府の周旋の縁組で、

公儀に対しての恩を感ずるところが大きかった。

この純長の代にも

大規模な隠れキリシタンの発覚があったが、

純長は実父を通じて隠さず報告したため、

特に咎めを受けなかった。

その後の大村家のキリシタン取締りは

徹底したものになっていく。

純の字を通字としているのは

藤原純友の裔という伝承を持つ。

G
補足〜3〜歴代藩主  

藩主

官位・通称

出自(実父・嫡出関係)

初代

大村喜前(よしさき)

従五位下 丹後守 大村純忠の子

二代

大村純頼(すみより)

従五位下 民部大輔 大村喜前の次男

三代

大村純信(すみのぶ)

従五位下 丹後守 大村純頼の長男

四代

大村純長(すみなが)

従五位下 因幡守 旗本伊丹勝長の四男

五代

大村純尹(すみまさ)

従五位下 筑後守 大村純長の二男

六代

大村純庸(すみつね)

従五位下 伊勢守 大村純長の四男

七代

大村純富(すみひさ)

従五位下 河内守 大村純庸の二男

八代

大村純保(すみもり)

従五位下 弾正少弼 大村純富の長男

九代

大村純鎮(すみやす)

従五位下 信濃守 大村純保の二男

十代

大村純昌(すみまさ)

従五位下 丹後守 大村純鎮の長男

十一代

大村純顕(すみあき)

従五位下 丹後守 大村純昌の四男

十二代

大村純熈(すみひろ)

従五位下 丹後守 大村純昌の八男






H
補足〜4〜幕末の大村藩(1)

大村藩では、藩主や家臣たちの奮闘に加え、

絶妙なタイミングの良さで、

藩主の改易もなく、なんとか幕末を迎えました。

そして明治維新。

大村藩は、官軍として戊辰の役を戦い、

維新を推し進めます。

このことは、幕末に多少詳しい方でないと

ご存じないかもしれません。

明治維新は、薩長土肥の雄藩により推進され、

肥前は佐賀の鍋島藩であるといわれます。

鍋島藩は、幕末期、

産業がもっとも近代化された藩であり、

大いに活躍しました。

戦後それぞれの藩主の賞典禄(論功行賞)を見ると、

薩摩10万石、長州10万石、土佐4万石、

そして鍋島2万石となっています。

ところが、大村藩主には

3万石の賞典禄が付いてます。

鍋島藩主より多かったんですね。

薩長土は言うに及ばす、鍋島は36万石の大藩。

一方、大村はたかだか2万8千石の小藩です。

大村藩と同じ規模で3万石の賞典禄を受け取ったのは

日向佐土原藩のみで、

この2つの藩は、

従来の石高とその賞典禄を比較しても、

評価が非常に高かったことがわかります。






I
補足〜5〜幕末の大村藩(2)

大村騒動の少し前、第一次長州征伐の頃。

大村藩は筑前黒田藩と同盟を結びます。

同盟のきっかけは、

幕府に対する長州征伐中止の要請。

黒田藩は、そもそも長州寄りで、

加えて当時の家老は、

筑前勤王党の首領、加藤司書。

同盟は、大村藩側は家老江頭官太夫が

代表となり協議され、黒田藩家老黒田山城を

大村藩に迎え成立します。

この同盟により、加藤司書は広島へ、

荘(まさどころ)新右衛門、渡辺清は小倉へ向い、

幕府軍副総裁、松平春嶽に対して、

長州征伐中止の建白書を提出。

J
補足〜6〜幕末の大村藩(3)

一方、渡辺昇は太宰府に向かいます。

太宰府には、八一八の政変で

長州に逃れた七卿の内、

第一次長州征伐の後、五卿がいました。

昇は太宰府で五卿と面会。

その際、五卿は土佐藩吉井源馬を紹介。

その後、源馬は大村で昇と接触。

二人して長崎の亀山社中に向かいます。

龍馬は、昇に対し、

長州の桂や高杉の紹介を頼まれる。

訳を聞くと、

対幕府、さらには日本国のため、

薩摩と長州は同盟を結ぶことが得策であるとし、

自分がその周旋役を担っている、と言う。

大村藩としても、

筑前黒田藩と共に長州を救おうと結束

薩長同盟の必要性は充分納得。

昇の活動を全面的に許可。

昇は大村純熈の親書を携えて長州へ向います。

そして毛利公と謁見。

薩長同盟について説き、

桂、高杉と龍馬を引き合わせます。

K
補足〜7〜幕末の大村藩(4)

渡辺昇の長州からの帰国を待っていた大村純熈は、

今度は島津忠義へ親書をしたため、

昇を薩摩に向かわせます。

昇一行は、長崎にいた村田新八とともに海路薩摩へ。

薩摩では、小松帯刀、奈良原幸五郎、

そして西郷吉之助と会談。

忠義へ純熈の親書を提出し、

大村藩は、その立場を明確に示しました。

この段階で、薩摩藩、長州藩、大村藩(後に平戸松浦藩)、

そして筑前黒田藩の連携が出来上がり、

後の維新軍の骨格が形成されていきます。

L
補足〜8

明治元年に大村藩主純熈は、

明治維新達成に殉じた志士たちを祭るために、

もともと合った天台宗円融寺を解体して、

招魂社を建立しました。

この神社を旌忠塋といいます。

後に、その後の戦争の戦没者を祭り、

昭和41年「大村護国神社」と改められました。

境内には、戊辰戦争戦没者の慰霊碑23基、

大村勤皇三十七士の碑などが建てられました。

社殿裏手の山畦から、

昭和44年に旧円融寺時代の庭園が発見され、

江戸時代初期の様式で

九州屈指の庭園であることが判明。

昭和51年に、国指定名勝に指定されました。

M
補足〜9〜大村家の家紋

鎌倉時代のはじめ、

大村家7代忠澄は、

兄の有馬経澄(つねずみ)(庶子のため分家)と共に

京都大番役として御所の守護に当たっていました。

たまたま京都のまちに大火があり、

御所も危うく成りましたが、

警固の者たちの働きによって、

やっと類焼を免れることが出来ました。

この時の兄弟の働きは抜群だったため、

天皇は、両人を側近く召され、

輪切りにした木瓜(もっこ)を与え、

その功を賞讃されました。

両人は直垂(ひたたれ)の袖で拝受しましたが、

瓜面の跡が鮮やかに残り、

何時までも消えませんでした。

それ以来、大村家の紋は

五ツ木瓜(もっこ)を用いることになったといわれています。

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