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幕末期 長崎で活躍した人物 |
(1) 天保2年(1831)〜明治6年(1873) 幕末の薩摩藩藩士。 明治維新後に初代埼玉県令となるが、早世。 通称は宗七。 幼くして実父野元綱美を失い、 母の手で育てられる。 やがてその才を見込まれて 同じ薩摩藩士の野村家を継いだ。 元治元年(1864)長崎を訪れた際に、 同じ薩摩藩士で薩英戦争の際に 藩より追われていた五代友厚と遭遇する。 だが、五代の広い世界を見たいという情熱に打たれ 五代のために弁明書を書き 赦免を得ることに成功した。 |
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(2) 慶応3年(1867)のパリ万国博覧会に 薩摩藩が独自に参加した際に 家老岩下方平を団長とする訪問団に加わり フランスを訪れた。 明治元年(1868)に 長崎裁判所判事兼九州鎮撫使参謀として 九州地方の平定に尽力し、 明治2年(1869)そのまま長崎県知事に転じる。 明治3年(1870)に松方正義の後任として日田県知事に転じ、 廃藩置県後に日田県が廃止されると、 初代埼玉県令となった。 在任中に43歳の若さで病死した。 日田県知事時代に 当時咸宜園で学んでいた清浦奎吾に目をかけ 埼玉県令転任後に呼び寄せている。 埼玉県職員を振り出しとした清浦は 官僚政治家として活躍し、 後に内閣総理大臣となった。 |
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(3) こぼれ話 長崎に赴任していた時の日記が残っている。 この日記には 海援隊メンバーの近藤長次郎の ことも記されている 「正月十四日 今晩、上杉宗次郎(長次郎の変名)、 伊藤俊輔、菅野覚兵衛とグラバーの別荘へ行く」 「正月二十三日 今晩八つ時前、 上杉宗次郎に盟約違反の不祥事があり自殺したと (亀山社中の)沢村惣之丞、高松太郎、 菅野覚兵衛が届け出た」と。 つまり、 長次郎は1月14日にグラバー宅を訪ねており、 切腹は23日となる。 多くの小説、文献が14日切腹との記述は 誤記の可能性が高いと言われている。 現にお墓のある晧台寺の過去帳も位牌も 「慶応二年正月二十四日死」とある。 あまり検証されないままに 定説になってしまったのではないかと推察されている。 |
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