@ 天保9年(1838)〜大正2年(1913) 幕末から明治にかけての日本の武士(大村藩士) 剣術家・政治家。 諱は武常。 号は東民、其鳳。 正三位勲一等子爵。 |
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A 肥前国大村藩士・渡辺巖の二男として生まれた。 渡辺家は大村五騎に数えられる名家。 幼少期から巨体で、頭が大きく、 「異相にして粗放」、 「道観さん(道教の像)」と言われた。 8歳で文武館に学び、 12歳で藩校・五教館に入校。 藩の剣術師範である一刀流の宮村佐久馬に師事。 (実際に指導にあたっていたのは 宮村の実弟・柴江運八郎であった) 安政元年(1855)斎藤弥九郎の三男・歓之助が 大村藩の剣術師範となり、 藩内の剣術が神道無念流に統一され 以降、大村城下に新設された道場・微紳堂で学ぶ。 |
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B 安政5年(1858)江戸藩邸勤めの父に従い、 江戸に出た。昇20歳。 安井息軒の塾に入って桂小五郎と知り合い、 桂の勧めで神道無念流の道場・練兵館に入門。 斎藤弥九郎とその長男・新太郎の指導を受け、 塾頭の桂らと稽古に励んだ。 渡辺は練兵館随一の実力者となり、 桂と並び「練兵館の双璧」と称された。 『練兵館』 斎藤弥九郎によって開かれた、神道無念流の道場。 「技の千葉」(北辰一刀流・玄武館)、 「位の桃井」(鏡新明智流・士学館)と並び、 「力の斎藤」と称され、 幕末江戸三大道場の一つに数えられた。 |
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C 翌年、桂が長州藩に帰藩。 渡辺が次期塾頭に選ばれ、 文久元年(1861)まで塾頭を務めた。 『幕末百話』によれば、 「朝から晩まで相手代われど主代わらず」 と言われたほど稽古熱心であったという。 尊王攘夷思想に傾倒し、 道場で仲間たちと政局を論じ合った。 また、近藤勇の道場・試衛館とも交流し、 近藤と懇意になったといわれる。 試衛館に道場破りが来ると 錬兵館に走って昇に助太刀を頼んだとも。 |
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D 大村藩に帰藩後、 勤王組織・三十七士同盟を結成。 兄の渡辺清とともに大村勤皇党を率い、 藩論を尊王攘夷にまとめ上げた。 第一次長州征伐の頃、 幕府に対する長州征伐中止の要請を主張し、 肥前大村藩は筑前黒田藩と同盟を結ぶ。 この頃、八月十八日の政変により、 都を追われた公卿らが筑前国太宰府におり、 昇は太宰府で五卿と面会。 その際、五卿により土佐藩士の吉井源馬を紹介される。 この吉井は後の海援隊隊士であり、 この縁により長崎の亀山社中にて坂本龍馬と面会。 |
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E 長崎で坂本龍馬と長州藩を結びつけ、 龍馬から薩長同盟締結実現のため、 長州藩と薩摩藩の橋渡しを頼まれた。 渡邊昇としても、 練兵館の兄弟弟子として桂小五郎らとも親しい仲であり、 また藩をあげての勤王派であり 長州救出は望むところであった為、 藩主からの支援を取付け、 藩主大村純熈の親書を携えて長州へ向かう。 昇は毛利公と謁見し、 薩長同盟について大いに説き、 その後、桂と龍馬を引き合わせることに成功。 これが薩長同盟の実現への足がかりとなった。 |
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F 慶応3年(1867)大村騒動と呼ばれる 勤王派、弾圧事件が勃発。 『大村騒動』 慶応3年(1867)に 「勤皇37士同盟」といわれた尊攘派の要人藩士が、 佐幕派藩士たちに襲撃された事件で、 元治の政変とも呼ばれるが、 藩政のクーデターを成功させた尊攘派の生き残りは、 後にこの騒動に関わった多くの佐幕派藩士や 親戚縁者までを捕らえ、斬首、獄門、遠島など弾圧した。 |
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G これを機に昇は難を逃れて京へ上洛。 桂小五郎・高杉晋作・西郷隆盛・大久保利通・ 坂本龍馬ら維新の志士と交流。 この頃、新選組隊士を斬殺し、 新選組から恐れられた。 大佛次郎の小説『鞍馬天狗』のモデルは、 一説にはこの頃の渡辺といわれる。 大村藩はその後、 改革派の渡辺昇、大村右衛門などが中心となって、 長州藩の奇兵隊の例にならい、 正規の軍備を整え、 『大村藩十三隊』として再編成して、 薩長両藩とともに軍事行動をともにし、 全国各地を転戦した。 |
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H 維新後、弁官(中弁)・弾正大忠などを務めた後、 盛岡県知事・大阪府大参事・大阪府知事などを務めた。 明治10年(1877)西南戦争が勃発。 当時大阪府知事であった渡辺は、 抜刀隊が編成されることを知ると、 府内で剣術道場を開いていた元新選組隊士・谷万太郎を 抜刀隊長に推薦した(結局、任命はされなかった)。 |
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I 明治13年(1880)元老院議官に就任。 参事院議官・財務部勤務を経て、 明治17年(1884)会計検査院長に就任した。 明治20年(1887)欧米の金融事情を視察するため渡欧。 同年5月、子爵を叙爵。 明治37年(1904)貴族院子爵議員に選出され、 明治44年(1911)まで在任した。 大正2年(1913)死去。享年76歳。 晩年は、志士時代に斬った新選組隊士の 亡霊にうかされていたという。 |
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J 武道界へ貢献 明治16年(1883) 東京麹町区紀尾井町の皇居付属地に、 宮内省の道場・済寧館が落成。 華族や政府高官の鍛錬場として隆盛し、 この派閥は俗に「宮内省剣術」といわれ、 抜刀隊の活躍以降盛んになっていた「警視庁剣術」に 拮抗する勢力となった。 渡辺は、山岡鉄舟と並ぶ宮内省剣術の代表格であった。 積極的に大会や試合に出場。 主な試合記録は、 明治16年(1883)明治天皇の御前で 山岡鉄舟と対戦 同年警視庁撃剣世話掛・上田馬之助に勝利。 明治17年(1884)同・下江秀太郎に勝利。 明治18年(1885)同・逸見宗助に敗退。 同年伊藤博文邸で上田馬之助と再戦(勝敗不明)。 明治32年(1899)薙刀の名人・ 園部秀雄に敗退、などがある。 |
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K 身長約6尺(180cm)の大柄な体格で、 4尺3寸(約130cm)ほどの長竹刀を用い、 大上段の構えから袈裟(肩)に打ち込んだり、 隙があれば防具で守られていない部分まで打ったため、 周囲から恐れられていたという。 明治28年(1895)渡辺が中心となり、 武術振興団体・大日本武徳会を結成。 武徳会剣術形(日本剣道形の前身)を制定するなど、 近代剣道の確立に尽力し、 明治36年(1903)同会より剣道範士号を授与された。 同会は太平洋戦争で日本が敗戦するまで、 日本武道界の総本山として君臨し続けた。 |
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L 兄…渡辺清 (明治維新志士、貴族院議員、男爵) 姪…石井筆子 (兄・清の長女。 知的障害者福祉施設・ 滝乃川学園第2代園長) |
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M エピソード 近藤勇は、自分の道場(試衛館)で 負けるとおぼしき人物には、渡辺昇を呼び、 相手をうちまかしてもらい、 ごちそうしたといわれています そして時がたち、 勇が局長を務める新選組は 池田屋事件で長州の過激派を襲撃し その名を天下に轟かせます。 倒幕の志士として名高い「肥前の渡辺昇」は、 新選組の標的の一人でもありました。 土方歳三が執念で渡辺昇の隠れ家を見つけだし、 いざ襲撃の直前に編み笠姿の近藤勇が一人、 その隠れ家を訪ね、 「渡辺うじの古い友人ゆえ、 今夜は危ないことを伝えにきた」 といい残し去ります。 その後、土方はこの襲撃失敗が 義理堅い局長の密告の仕業と分かっていながらも、 不問にしたとつたわります。 丁度、渡辺は留守でこの事を知りません。 この事実を知るのはなんと近藤勇の死後です。 葬儀にも出なかった不誠実な自分を嘆いて 人目も憚らずに泣いたと言われます。 |
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