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 B-ninomiya            次へ     シーボルトの弟子  二宮 敬作(にのみや けいさく
二宮敬作〜1

文化元年(1804)〜文久2年(1862) 号は如山(じょざん)

江戸時代末期の蘭学者・医学者

特に医学・薬草の研究に優れた業績を残した。

日本初の女医(産科医)となった

シーボルトの娘・楠本イネを養育したことでも知られる。


文化元年(1804)伊予国宇和郡磯崎浦に生まれる。

生家は酒などの商いもする半農半商の家で

父は六弥、母はシゲ

文政2年(1819)16歳で医師を志し長崎に留学。

通詞吉雄権之助や美馬順三に師事し、

蘭語・蘭方医学を学んだ後

文政6年(1823)シーボルトの門弟となり鳴滝塾で学ぶ この時20歳。

同門に、高野長英や江戸の奥医師伊東玄朴や

戸塚静海らがいた。

門下生中最も信頼されていたと伝わる。
「二宮敬作」〜2

文政9年(1826)シーボルトの江戸参府に同行を許され、

この折に測量器(水銀気圧計と推察される)を用いて

富士山の高度を日本で初めて測量した。

シーボルトの母国への報告によると

この測量結果は4982mであるらしい。


シーボルト著の「日本植物誌」によると、

敬作が九州の高山から採取した植物に

シーボルトが「ケイサキイアワモチ」と命名したとされる。


文政11年(1828)シーボルト事件が起き、

シーボルトは長崎を去るが、

この際、敬作は高良斉とともに漁師に変装し

小舟に乗って旅行くシーボルトを見送ったという。

この際に、その娘イネの養育を託された。

敬作は事件に連座し、半年の入獄ののち、

江戸立ち入り禁止、長崎からも追放され、

天保元年(1833)故郷・磯崎に帰省    この時24歳。

宇和郡卯之町で開業。

複雑な時勢により蘭学者が弾圧されるという背景もあったようだ。
二宮敬作」〜3

27歳の時、大洲領上須戒村西家の女イワと結婚

種痘の普及に尽力し、情にあつく、貧しい人にも献身的な活動で

地元民から「医聖」として慕われたほか、卓越した技量と

温かい人間性により宇和島藩主伊達宗城に重用された。

幕府の外国との接し方を批判した書物を書いて

幕府から追われた蘭学者・高野長英を匿い

村田蔵六(後の大村益次郎)とも親交があった。一方酒乱で、

酔って刃物を抜き家人を追い回すこともあったと言う。

そのためか後年脳溢血で倒れた。その後右腕に障害が残ったが

手術には誤りがなかったと言う。


天保元年(1833)に宇和郡卯之町で町医者となると、

天保11年(1840)には、14歳のイネを長崎から宇和町に呼び寄せ

オランダ語・西洋医学を教え、日本初の産科女医へと育てあげた。
顕彰碑

「二宮敬作」〜4


安政5年(1858)に再び長崎へと赴き、開業医となった。

その後、敬作が故郷へ帰ることはなかったという。

安政6年(1859)に念願の再来日ができたシーボルトは、

産科医を開業している娘イネをみて、敬作の義侠に感涙したと言う。

江戸に赴くシーボルトに同行するつもりであったが、

病に倒れ果たせなかった。

文久2年(1862)長崎で病没。享年59歳。

長崎の寺町の皓台寺にある墓碑はイネが建てたものである。

地元宇和島の開明学校裏手の墓地に

「二宮敬作翁之墓」がありますがその遺髪が埋められているそうです。

敬作の甥でその門人三瀬周三は、イネの娘タカの婿である。

死後、正五位を贈られている。 日本人としてはただ一人だけ

『ライプチッヒ版ドイツ百科事典』に

「日本の俊才、二宮敬作伝」と記されて、その名を留めている。

敬作の生まれた八幡浜市保内町磯崎には、

国道沿線に二宮敬作記念公園がつくられている。
居宅跡

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