『オランダ正月』 | ||
@ 江戸時代に長崎の出島在住のオランダ人たちや、 江戸の蘭学者たちによって行われた 太陽暦(グレゴリオ暦)による正月元日を祝う宴である。 「紅毛正月」などと呼ばれることもある。 〜長崎のオランダ正月〜 元々は長崎出島のオランダ商館で、 日本在留のオランダ人が祝っていた風習であった。 江戸幕府によるキリスト教禁令のため、 表だってクリスマスを祝うことができなかったオランダ人が、 代わりとして冬至に合わせて「オランダ冬至」として開催し、 また日本の正月の祝いをまねて 太陽暦による正月元日に 出島勤めの幕府役人や出島乙名、 オランダ語通詞たち日本人を招いて 西洋料理を振る舞い オランダ式の祝宴を催したのが始まりである。 これを長崎の人々は阿蘭陀正月と呼んだ。 やがて長崎に住む日本人 とりわけオランダ通詞らの家でも これを真似てオランダ式の宴が催されることもあった。 異国の文化に関心をもっていた長崎の人たちは、 その様子を版画や絵画に描き残しています。 文政年間の『長崎名勝図絵』では献立が記されており 牛肉・豚肉・アヒルなどの肉料理や ハム、魚のバター煮、カステラ、 コーヒーなどが饗されていたようだが、 招かれた日本の役人は ほとんど手をつけずに持ち帰ったともいう。 |
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A 〜江戸芝蘭堂のオランダ正月〜1 江戸時代中期に活躍した通詞吉雄耕牛の自宅は 2階にオランダから輸入された家具を配して 「阿蘭陀坐敷」と呼ばれており 庭園もオランダ渡りの動植物にあふれ 長崎の名所となっていた。 通詞以外の全国の蘭学者も多く師事した耕牛の家では、 やはり太陽暦の元日に合わせ、 オランダ正月が催されていた。 江戸の蘭学者で指導的な地位にあった大槻玄沢も、 この吉雄家洋間のオランダ正月に参加して感銘を受けた。 歴代のオランダ商館長は 定期的に江戸へ参府することが義務づけられていたが 寛政6年(1794)のヘイスベルト・ヘンミーの江戸出府で オランダ人と初めて対談した大槻玄沢は、 これを機にこの年の閏11月11日が 西暦で1795年1月1日に当たることから、 京橋水谷町にあった自宅の塾芝蘭堂に、 多くの蘭学者やオランダ風物の愛好家を招き、 新元会(元日の祝宴)を催した。 ロシアへ漂流した大黒屋光太夫なども招待されていた。 |
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B 〜江戸芝蘭堂のオランダ正月〜2 記念すべき第1回の江戸オランダ正月は 津藩の市川岳山が描く『芝蘭堂新元会図』で知られ、 出席者による寄せ書きがされており、 当日の楽しげな様子が十分伺える。 大きな机にはワイングラス、フォーク、ナイフなどが置かれ、 部屋には洋式絵画が飾られている。 出席者は他に玄沢の師であり すでに『解体新書』の翻訳で名を上げていた杉田玄白や、 宇田川玄随などがいた。 オランダ正月の背景には、 8代将軍徳川吉宗による洋書輸入の一部解禁以降、 蘭学研究が次第に盛んとなり、 この頃には蘭癖と称された オランダ文化の愛好家が増加していたことがある。 蘭癖らの舶来趣味に加え、 新しい学問である蘭学が一定の市民権を得ていたことを受け、 日本の伝統的正月行事に把われることなく、 蘭学者たちが親睦を深め、 自らの学問の隆盛を願い、 最新情報の交換を行う集まりとして、 以後も毎年行われるようになっていった。 ただし、当時使用されていた寛政暦などの太陰太陽暦と 西洋のグレゴリオ暦とのずれは毎年異なっていたため、 便宜上、翌年以降は冬至 (太陽暦でも太陰太陽暦でも同じ日である) から数えて第11日目に オランダ正月の賀宴を開催するのが恒例となった。 |
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C 〜江戸芝蘭堂のオランダ正月〜3 玄沢の子・大槻磐里が没する天保8年(1837)まで 計44回開かれたという。 玄沢の孫如電は「磐水事略」の中で、 次のように述べております。 「この会は常にオランダ正月と唱え、 爾後年々冬至より第11日目に賀宴を開き、 社友を会すること、磐水没後も元幹受け継ぎて 凡そ50年許永続したりき。 漢方医者の冬至に神農祭をなすより、 オランダ正月には西洋の医祖と仰ぐ ヒポクラテスの像を掛けて祭りしなり。」 |
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D 〜長崎の正月料理〜 長崎のお雑煮 古くから交易で栄えた長崎では、 雑煮の具も山海の幸で盛りだくさんです。 具を10品以上入ることも多く、 なかでも鰤(ブリ)は欠かせない一品です。 具は焼いた丸餅、唐人菜、魚(鰤、鯛など)、 鳥だんご(鳥やキジの肉)、紅白のカマボコ、 海老カマボコ、干し海鼠、椎茸、結び昆布、 里芋、竹の子、クワイなど、大変豪華な品数。 正式にはこの中から7品、9品、11品の具が入り、 閏年には13品も入れられる。 煮出し汁は鰹節、昆布、椎茸のうま味が効いたすまし仕立て。 また、焼きアゴ(飛魚)からとる家庭も多い。 金蒔絵の雑煮椀に盛り付けられる。 |
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E 〜長崎の正月行事〜 年始廻り 元旦 商初 二日(新しい暖簾を使う) 絵踏み 三日(町年寄) 四〜七日(町民) 八日(丸山遊女) この絵踏みは 鎖国の直前からはじまったが、 踏み絵の製作を命ぜられた古川町の 萩原祐佐は作品のあまりの見事さに かえって切支丹と疑われて斬罪となった。 江戸中期より形式化された年中行事となり、 遊女達は「絵踏衣装」といわれる華美な衣装を競いあい、 また見物人も嬌姿を見ようと群集したという。 そして町民も遊女も絵踏がすむと 「後賑やかし」とよぶ厄払いの盛大な祝宴をもよおした。 明治に入ってこの絵踏みが廃止になった時、 娘たちが「おやつし」をすることができなくなったのは 外国人のせいだと、逆に恨んだほどであった。 |
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F 〜長崎の中国正月〜 中国正月は「春節」ともいい、 春の訪れをことほぎ 豊かな季節の実りを祈って 中国で古くから行なわれてきた行事です。 特に、正月15日は「上元節」といい、 その夜(元宵)には、 家ごとに色鮮やかな燈籠を飾る習慣がありました。 燈籠見物は人々の楽しみの一つであり、 その燈籠のもとでは、数多くのロマンスも生まれました。 「燈籠の恋」がそれです。 中国の影響が大きかった長崎では、 貿易のため来日した華僑の間で広く行われていたようです。 |
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G 補足1 〜吉雄耕牛〜1 吉雄 耕牛(よしお こうぎゅう) 享保9年(1724〜1800) 日本の江戸時代中期のオランダ語通詞(幕府公式通訳) 蘭方医。 諱は永章、通称は定次郎、のち幸左衛門。幸作とも称する。 号は耕牛のほか養浩斎など。 父は吉雄藤三郎。 吉雄家は代々オランダ通詞を勤めた家系。 享保9年(1724)藤三郎の長男として長崎に出生。 幼い頃からオランダ語を学び、 元文2年(1737)14歳のとき稽古通詞、 寛保2年(1742)には小通詞に進み、 寛延元年(1748)には25歳の若さで大通詞となった。 年番通詞、江戸番通詞(カピタンの江戸参府に随行) をたびたび勤めた。 |
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H 補足2 〜吉雄耕牛〜2 通詞の仕事のかたわら、 商館付の医師やオランダ語訳の外科書から外科医術を学ぶ。 特にバウエルやツンベリーとは親交を結び、 当時日本で流行していた梅毒の治療法として 水銀水療法を伝授され、実際の診療に応用した。 オランダ語、医術の他に天文学、 地理学、本草学なども修め、 また蘭学を志す者にそれを教授した。 家塾である成秀館には、 全国からの入門者があいつぎ、 彼が創始した吉雄流紅毛外科は 楢林鎮山の楢林流と双璧を為す西洋医学として広まった。 |
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I 〜吉雄耕牛〜2 吉雄邸の2階にはオランダから輸入された家具が 配され「阿蘭陀坐敷」などと呼ばれたという。 庭園にもオランダ渡りの動植物にあふれ、 長崎の名所となった。 同邸では西洋暦の正月に行われる いわゆる「オランダ正月」の宴も催された。 吉雄邸を訪れ、あるいは成秀館に学んだ蘭学者・医師は数多く、 青木昆陽・野呂元丈・大槻玄沢・三浦梅園・ 平賀源内・林子平・司馬江漢など 当時一流の蘭学者は軒並み耕牛と交わり、 多くの知識を学んでいる。 大槻玄沢によれば門人は600余を数えたという。 中でも前野良沢・杉田玄白らとの交流は深く、 2人が携わった『解体新書』に耕牛は序文を寄せ、 両者の功労を賞賛している。 また江戸に戻った玄沢は、 自らの私塾芝蘭堂で江戸オランダ正月を開催した。 若くして優れた才覚を発揮していたため、 上記に記している青木昆陽・野呂元丈・前野良沢など、 自身よりも年上の弟子が何人も存在する。 |
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J 〜吉雄耕牛〜3 寛政2年(1790)樟脳の輸出に関わる誤訳事件に連座し、 蘭語通詞目付の役職を召し上げられ、 5年間の蟄居処分を申し渡されたが、 復帰後は同8年(1796)蛮学指南役を命じられた。 寛政12年(1800)に平戸町の自邸で病没。 享年77。法名は閑田耕牛。 訳書には『和蘭(紅毛)流膏薬方』、 『正骨要訣』、『布斂吉黴瘡篇』、『因液発備』 (耕牛の口述を没後に刊行。 のちに江馬蘭斎が『五液診方』として別に訳出)など。 通訳・医術の分野でともに優れた耕牛であった。 子供で永久が医術を、 通詞は権之助(六二郎)がそれぞれ受け継いだ。 権之助の門人に高野長英らがいる。 |
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K 補足2 〜芝蘭堂〜1 芝蘭堂(しらんどう)は、 江戸時代後期、蘭学者大槻玄沢(磐水)が 江戸で開いた蘭学塾。 また玄沢の別号(堂号)でもある。 大槻玄沢ははじめ江戸で 杉田玄白・前野良沢から蘭学・医学を学び、 それぞれの号から一字を受けて玄沢と称した。 その後、天明5年(1785)長崎へ留学して 通詞本木良永・吉雄耕牛らからオランダ語を学ぶ。 翌年5月江戸へ戻り杉田玄白邸に身を寄せ、 仙台藩医として召し抱えられた。 8月には本材木町に居を構え、 「幽蘭堂」と称している。 |
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L 〜芝蘭堂〜2 その後一時帰郷して家族を呼び寄せ、 天明8年(1788)三十間堀に移転。 この年、玄沢は蘭学の入門書『蘭学階梯』を著したことで、 斯界で大いに名を高めており、 この前後に私邸を「芝蘭堂」と称して開塾したと思われる。 塾名の「芝蘭」とは本来、霊芝と蘭のことを指し、 香りの良い草の総称として用いられる慣用句。 さらに転じて『孔子家語』の 「與善人居、如入芝蘭之室 (善人とともにいると 香草の香り漂う部屋にいるように感化される)」 「芝蘭生於深林、不以無人而不芳 (芝蘭は人のいない深林に生えていても 常によい香りを放っている)」 あるいは『晋書』の「芝蘭玉樹生庭階 (香りの良い草や美しい木は階段の近く =優れた先生の側に生える)」 など古典漢籍に見られるように、 優れた人物や君子にたとえられる語である。 一説には元々杉田玄白の塾名であったものを譲り受けたともいう。 入塾した弟子は100名以上いたと思われる。 また芝蘭堂は玄沢の私邸でもあったため移転も多く、 たびたび転居している。 |
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M 〜芝蘭堂〜3 寛政6年(1794)オランダ商館長の江戸出府で オランダ人と初めて対談した玄沢は、 これを機にこの年の閏11月11日が 西暦で1795年元日に当たることから、 芝蘭堂(この時期は京橋水谷町)に多くの蘭学者らを招き、 新元会(元日の祝宴)を催した。 世にオランダ正月と名高いこの宴はその後も毎年続けられ、 玄沢の子・玄幹の死まで44年間行われた。 芝蘭堂は文政10年(1827)の玄沢の死後も、 長男玄幹(磐里)が継ぎ、 さらに孫の玄東(磐泉)にまで引き継がれ、 江戸における蘭学学習の一大中心地としてあり続けた。 なお、洒落っ気も持ち合わせていた玄沢は 「しらんどう」の名をもじって「無識堂半酔先生」と号し、 「医者商」なる戯作も書いている。 |
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