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村田 政矩(むらた まさのり)

村田若狭守政矩(むらたわかさのかみ まさのり)

文化11年(1815)〜明治6年(1874)

佐賀藩の家老 久保田邑主

龍造寺政家の後裔

名は政矩、慶吉郎、「西麒」と号す。

日本人で二番目にプロテスタントの洗礼を受けた人物。

佐賀藩の重臣である深堀鍋島家の

鍋島茂辰(孫六郎)の次男。

同じく佐賀藩重臣(親類)で、

肥前久保田の領主である村田家を継いだ。

A

家督を相続後は

邑地の海面を干拓して良田となし、

大に民力の扶植に努めた。

藩主鍋島直正及び直大の信任を得て

常に家士を長崎に遊学させ

蘭学を修めさせ郷校を再興し、

西洋文物の普及を図った。

文久年間には

幕府の蘭医ボードインを招き

長崎に病院を建てた。

種痘を奨励し、銃砲製造所を創立。

蒸気船の模型を作り嘉瀬川に浮かべる等

科学的研究に熱心であった。

明治の初め佐賀藩の執政となり、

封土奉還の議を主張

廃藩置県に功をあげた。
B
幕府の命により、

長崎警備のため藩から度々出向

当時長崎滞在中のフルベッキに英語を学び、

家臣が港で拾った英書に興味を覚え

解読を試みる。

それは『聖書』であった。

慶応2年(1866)には

弟綾部とともに洗礼をうけている。

キリスト教禁制のもとながら

藩主鍋島直大は

棄教させることなく彼を引退させた。

その後久保田村に隠棲

聖書の和訳に励んだ。

明治6年(1873)59歳で没し

村田家の菩提寺

久保田町徳万の大雲寺に葬られた。

大正4年正五位を追贈。


C
補足(1)

聖書と出会う以前より、

蘭癖として知られた人物であった。

キリスト教が禁教であった幕末に、

聖書に出会った佐賀藩の家老村田若狭守政矩は、

キリスト教を取り締まるべき立場であった

にもかかわらず、その虜になり、

日本で2番目のプロテスタントの受洗者となりました。

ちなみに日本初のプロテスタント受洗者は、

若狭が受洗する前年、

慶応元年11月に横浜で洗礼を受けた

ヘボンの日本語教師矢野元隆だそうです。

矢野元隆は死期が迫った病床で洗礼を受け、

受洗後1カ月で亡くなったそうです。

D
補足(2)

安政元年(1854)

佐賀藩が長崎警備に当っていた時に

英国の軍艦が長崎港に停泊。

その時、佐賀藩士の古川礼之助が

波間に漂う物を拾い上げ

村田若狭守政矩に届けた。

開いてみるとそれは

油紙に包まれた外国の書物であった。

若狭は持ち込まれた本に非常に興味を示し

オランダ通事に内容を確認したところ

英語訳聖書であることがわかった。

若狭は佐賀に戻ると

医者の江口梅亭を長崎に派遣し

問題の書物について色々と調べさせた。

梅亭は長崎に滞在していた宣教師フルベッキに会い

聖書は既に漢文に訳されていることを知り

漢訳聖書を手に入れ、若狭に届けた。

若狭は漢文に訳された聖書を読んでみたものの

内容が理解できず

自らは家老のために自由に身動きできないので

江口梅亭、本野周蔵、

綾部三左衛門を長崎へ派遣し

フルベッキに学ばせ

彼らから間接的に聖書を学んだ。

なお、江口は後に医者として活躍したが、

生涯洗礼を受けることはなかった。

E
補足(3)

聖書を手にしてから12年後の慶応2年(1866)

フルベッキを訪ね洗礼を受けたいと申し出た。

当時はまだキリスト教は禁じられていた。

受洗により地位や財産を失い

近親者にも過酷な迫害が及ぶ可能性があったため

フルベッキは受洗を思いとどまるように促したが

若狭の決意は堅く

弟恭と共に日本で2番目の

プロテスタントの受洗者となった。

三年後には家族と清水宮内という名の僧侶も

フルベッキから洗礼を受けている。

その後、フルベッキは

明治政府から招聘されて

東京で大学教授になり長崎を離れる。

当時はまだ明治政府は

キリスト教禁制を継承していたが

藩主鍋島直大の寛大な処分により

久保田村で隠居

『聖書』の日本語訳に励んだという。

日本伝道は日本人によるべきであると

二人の青年をフルベッキに託し

将来のキリスト教の発展を祈り

微笑しつつ没したという。

墓前の燈籠の火袋の墓側は十字の模様となっている。


F
補足(4)

『蘭癖』(らんぺき)〜1

蘭癖は江戸時代、

蘭学に傾注したり、

オランダ式(あるいは西洋式)の習俗を

憧憬・模倣するような人を指した呼び名である。

徳川吉宗の享保の改革により

洋書輸入が一部解禁されたことから

江戸中期以降、蘭学研究が盛んになった。

学問的な興味だけではなく

生活様式や風俗・身なりに至るまで

オランダ流(洋式)のものを憧憬し

模倣するような者まで現れるようになり

中には蘭語名まで持つ者まであった。

ただし、江戸中期から後期にかけての史料においては

「蘭癖」という語の使用例は多くない。

幕末期にいたって

水戸藩など攘夷派から「西洋かぶれ」の意で

蔑称として用いられる例が多くなり

明治時代になって普及した語といえる。

すなわち「鎖国」などと同様に

明治以降になって普及した後に

それ以前の"蘭癖"的人物も

この語で形容されるようになったものであろう。

G
補足(5)

『蘭癖』(らんぺき)〜2

吉雄耕牛・平賀源内・大槻玄沢らのように

オランダ正月と呼ばれる

太陽暦で祝う正月行事などの

西洋式習俗を楽しむ学者などもいたが、

蘭書やオランダの文物・珍品は非常に高価であり

購入には莫大な経済力が必要だったため

「蘭癖」と称される人物には

学者よりも大商人や大名・上級武士が多い。

特に藩主の場合は「蘭癖大名」などと呼ばれる。

殿様趣味の枠を超えて

自ら蘭学研究を行ったり学問の奨励するなど

文化的な評価は高い反面

蘭学趣味が高じて藩財政を窮地に陥れる

などの傾向も見られる。

蘭癖大名の分布としては、

主に九州の外様大名が多い。

これはオランダに開かれた港・長崎が近く、

蘭書や輸入品の入手が容易だった

ことと無縁ではないだろう。

その点、関東に所領を持つ譜代大名の堀田正睦は

かなり例外的である。

蘭癖大名として知られる代表的な人物として、

薩摩藩主島津重豪が挙げられる。

重豪の子である奥平昌高・黒田長溥や

曾孫の島津斉彬も

重豪の影響を受けたためかそれぞれ

蘭癖大名と称される。

文明開化以降は、

「西洋かぶれ」も珍しい物ではなくなり

蘭癖と称されることもなくなる。

H
補足(6)

『蘭癖』(らんぺき)〜3

著名な蘭癖大名

細川重賢(熊本藩主 1721〜1785)

島津重豪(薩摩藩主 1745〜1833)

佐竹義敦(久保田藩主 1748〜1785 曙山)

朽木昌綱(福知山藩主 1750〜1802)

松浦静山(平戸藩主 1760〜1841)

奥平昌高(中津藩主 1781〜1855 
     島津重豪の次男)

黒田斉清(福岡藩主 1795〜1851)

島津斉彬(薩摩藩主 1809〜1858 
     島津重豪の曾孫)

堀田正睦(老中・佐倉藩主 1810〜1864)

黒田長溥(福岡藩主 1811〜1887 
     島津重豪の九男、黒田斉清の養子)

鍋島直正(佐賀藩主 1815〜1871)

伊達宗城(宇和島藩主 1818〜1892)

大名以外

司馬江漢(絵師 1738〜1818)

熊谷義比(長州藩御用商人 1795年〜1860)

山片重芳(升屋。大坂商人 
     仙台藩御用山片蟠桃の主人)

渡辺崋山(田原藩家老 1793〜1841)

三宅友信(田原藩主三宅康保の父 1793〜1841)

江川英龍(伊豆韮山代官 1801〜1855)

村田政矩(佐賀藩家老 1815〜1874)

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