@ 天保7年(1836)〜明治42年(1909)12月10日 日本の官僚、実業家。本姓は八田。 肥前国佐賀藩の久保田村に八田晋の子として生まれた。 後に本野権太夫の養子となる。 佐賀有田で谷口藍田に師事し、 藍田塾の仲間の縁で大阪へ出て、 緒方洪庵の適塾で蘭学を修めた。 長崎の致遠館では、フルベッキに英語等を学んでいる。 藩命で江戸へ出府。 |
![]() 本野盛亨 |
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A 明治元年(1868)に 神奈川県大参事(裁判所)に出仕 明治3年(1870)子安峻、柴田昌吉ともに 日本最初の活版印刷社「日就社」を 横浜で創業 「日就社」は明治6年(1873)に東京に移転し、 翌年、読売新聞を創刊する。 明治5年(1872)駐英公使館1等書記官として渡英。 帰国後、横浜税関長など大蔵省で勤務。 明治15年(1882)検事に転じ、 明治20年(1887)まで大阪控訴裁判所検事を務める。 明治22年(1889)2代目読売新聞社社長に就任。 |
![]() 日就社 |
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B 妻總子。 長女富士子は東京市岩佐病院長夫人。 長男一郎は外務大臣 次男英吉郎は4代目読売新聞社社長 3男亨は京都帝国大学教授 4男精吾は建築家で京都工芸繊維大学教授 本野家の墓は本町草木田の寶琳寺にある。 正三位勲五等 享年74歳で没す。 |
![]() 読売新聞社 |
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C エピソード〜1 本野盛亨は読売新聞社社長就任の挨拶に 「新聞の編集には口を出さず委せるが ただ新聞の記事のために泣く人や 恨む人を作りたくない。 いくら新聞が売れなくとも 個人の私事を暴くことだけは 絶対に差し控えて欲しい」 と述べている。 その人柄をうかがい知る事ができる。 3代目は甥の高柳豊三郎が社長となった。 4代目には盛亨の次男である英吉郎が社長に就任 英吉郎が亡くなる大正8年までは 本野家が読売新聞社の実権を握っていた。 |
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D エピソード〜2 『読売新聞』〜1 日本の代表的な全国紙の一つで 世界最大の発行部数を誇る。 明治7年(1874)子安峻らが東京で創刊。 現存の三大紙のなかでは最も古い。 当初は小(こ)新聞で 俗談平話、振り仮名つきの隔日刊紙。 庶民の人気を集め、 新聞界第一の発行部数を獲得、 翌年5月1日から日刊紙となった。 明治22年(1889)本野盛亨が社長となり 高田早苗(主筆)坪内逍遙が入社すると 文芸新聞としての色彩が強くなり 幸田露伴、尾崎紅葉ほか多くの文人が入社 (『金色夜叉』など主要作のほとんどを紙上で発表) 紙面を飾った。 明治末期には、社員正宗白鳥の人脈から 自然主義作家が活躍した。 |
![]() 本野盛亨 ![]() 坪内逍遙 |
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E エピソード〜3 『読売新聞』〜2 報道新聞化への動きに取り残され しだいに経営は苦境に陥ってきたため 大正に入ると大正8年(1919)本野家の経営を離れ 松山忠二郎(元『東京朝日新聞』編集局長)が社長就任。 編集の人材を入社させ通信網の充実を図り 紙面を刷新、世間の人気は急速に高まった。 大正12年(1923)の関東大震災で 落成したばかりの新社屋が被災 翌年、虎の門事件の責任で 警視庁警務部長を免官になった正力松太郎が買収 ラジオ版の新設、日曜夕刊も発行 本因坊・雁金戦をはじめ囲碁・将棋対局 空前の日本名宝展開催 職業野球の創始など 次々に独創的企画を打ち出し 紙面に掲載、人気を集めた。 第二次世界大戦前すでに東京第1位の部数を誇った。 戦後は2次にわたる争議(読売新聞争議) 正力社長の戦犯容疑者指名・追放などの危機を 新社長馬場恒吾の下で切り抜け 専売制復帰とともに全国に紙数を伸ばした。 昭和52年(1977)には 日本の新聞界で初めてアメリカに進出 ニューヨークで現地印刷を開始した。 |
![]() 幸田露伴 ![]() 尾崎紅葉 ![]() |
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F エピソード〜4 『新聞創刊の地』 洋学者子安峻らが 当時虎の門外琴平町1番地の旧武家屋敷に わが国初の本格的な 大衆啓発紙読売新聞を創刊したのは 明治7年(1874)11月2日である 江戸時代の情報伝達形式であった 「読売瓦版」から名をとって題号とし 漢字にふりがなを施した平易な新聞として出発した 創刊のころ 漢字教育を与えられていなかった市民から 町名番地にちなんで 「千里を走る虎の門 ことにひらがなは一番なり」 と歓迎された 維新後の東京に発祥した開明的な大衆紙から 今日に至るまで 題号を変えず全国紙に発展したのは わが国新聞史上類例のないことである 昭和49年11月 東京都港区教育委員会 |
![]() 『新聞創刊の地』 ![]() 読売新聞社 |