幕末期 長崎で活躍した人物 
     
 「本木昌造」−1
 次へ
(1)

本木 昌造(もとぎ しょうぞう または もとき しょうぞう)

文政7年(1824)〜明治8年(1875)

江戸幕府の通詞、教育者

諱 永久  幼名 作之助または元吉

異表記に昌三、笑三、咲三

号 永久

活版印刷の祖と言われる


文政7年(1824)長崎新大工町の世話人

北島三彌太の四男として生まれる。

11歳、天保5年(1843)に

母の兄、本木昌左衛門の養子に入る。


(2)

本木家は平戸のポルトガル通詞に始まるオランダ通詞の家系

本木の二代前の正栄は英和や仏和の辞典を作成

オランダ語を学び、舶来の書物によく接して

西洋の技術に強い関心を寄せた。

養父昌左衛門も語学の才能があり、

英語、オランダ語、ロシア語が達者で、

通訳として優秀。

外国語塾を開き幕府に頼まれ砲術の書物を翻訳、

日常会話の手引書なども刊行している。

昌造も暗記力抜群で父の職を継ぎ通詞となり、

嘉永6年(1853)にロシアの使節

エフィム・プチャーチンが長崎へ来航した折は通訳を務め

翌安政元年(1854)に下田に向かった折、

下田での条約交渉の通詞を担当

11月に彼らの船が地震により破損すると、

ロシア側との交渉を取り持ち、

わが国最初の洋式蒸気船を

無事に建造せしめるなど、

通訳以外の仕事へも強い関心と

実績を上げる。

(3)

知識欲旺盛で西洋の諸文献を読みあさり

オランダ船の船長から通訳のお礼だと

古い活字式印刷機を譲り受け、

文明文化の進歩の根源は文字印刷にあると

漢字やかなの印刷ができないかと

印刷機を解体し研究を始める。

安政元年(1854)投獄される。

嫌疑は蘭通弁書の印行の咎、

英和辞書を印行しようとした咎、

他人の罪の身代わりなど定まらない。

出獄して謹慎となった本木は、

パンチ父型の製造などに取り組むが、

技術の未熟や材料の不足もあって成功しなかった。

(4)

万延元年(1860)11月、

飽浦の長崎製鉄所の御用係に任命され、

イギリスより蒸気船を買い入れ、

自ら船長となり江戸などへ航海をした。

後年の弟子平野富二は機関士として同船

寸暇を見ては活版印刷を考え、

また、長崎版の印行に関係した。

明治元年(1868)に

浜町と築町間の中島川に

日本最初の鉄橋を架設した。


次へ


                                       



吉いわさき弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎