@ 『楠本 正隆』(くすもと まさたか) 天保9年(1838)〜 明治35年(1902) 肥前大村藩の武士、 明治期の政治家。 男爵。 西州と号す。 尊攘・倒幕運動の高まりの中で藩の中老として活躍。 県会開設、地租改正事業推進等の改革に努め、 名地方官といわれた。 大久保利通の腹心として知られた。 |
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A 天保9年(1838)肥前大村藩士・ 楠本直右衛門正式(60石)の長男として 玖島城下の岩船に生まれる。 殿様の側仕えをする「馬廻り」という役目を務め。 藩校・五教館の監察、頭取を務めた。 中老として尊攘倒幕運動で活躍し、 渡辺昇ら「大村三七士」の一人として知られる。 |
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B 明治元年(1868)徴士として新政府に出仕。 長崎府判事兼九州鎮撫使参謀助役を務め。 貿易港長崎を治める役につき、 この仕事で井上 馨 (いのうえ かおる)通称を聞多と交流を持つ。 明治3年(1870)に外務権大丞、 明治5年(1872)に外務大丞。 大久保利通にその政治能力が認められ、 同年5月24日に新潟県令として就任する。 |
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C 明治8年(1875)の離任までの間、 信濃川の工事の問題を解決 大川津事件を鎮定、 柏崎県を新潟県に併合、 第四国立銀行設立など県の近代化に尽力した。 日本初の都市公園として 国立市民公園の白山公園を開設する。 その後の東京府知事時代にも いくつかの公園を建設しています。 その他、県議会の開設や地租改正推進などに努め、 大久保からは「天下随一の県令」と賞された。 〜川蒸気船〜 明治5年5月から明治8年11月までの新潟在任中 新潟川汽船会社を設立させたりした。 |
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D 明治8年(1875)6月に、 政府が地方官会議を東京に開催し、 その幹事長となる。 同年8月に内務大丞に転じ、 同年12月19日に東京府権知事を兼任する。 明治10年(1877)1月22日に府政に専念し、 東京府知事となる。 料理店、待合、船宿、魚市場、野菜市場に府税を賦課し、 道路橋梁を改修。 市区を改正(大区小区制を廃止し、府内を15区6郡に)した。 |
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E 明治12年(1879)12月12日に知事を退任し、 同年元老院議官となる。 明治22年(1889)東京市会議員となり、 同年東京市会議長となる。 明治22年(1889)12月から明治23年(1890)10月まで 元老院副議長を務め、 明治23年(1890)に衆議院議員に当選し、 明治26年(1893)に衆議院副議長となる。 後に、星亨の議長不信任案が可決され、 同年衆議院議長に就任した。 政党活動を通じて立憲改進党などを組織し、 都新聞社主や社長も務めるなど 民権の伸張や政界刷新に努めた。 |
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F 明治29年(1896)6月5日、 維新の功により男爵を授けられる。 同年、議員を辞職。 その後、錦鶏間祗候を拝命。 明治35年(1902)死去。享年65。 墓は、谷中霊園乙7号甲1側。 霊園事務所前方の舗装通路角の広い囲みの中にある。 扉の隙間から見ることができる。 正面「楠本正隆之墓」。 楠本正敏・同夫人・息子大助は、 「楠本家之墓」に合祀されている。 なお、父の正武と母富智子墓も同域にある。 |
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G 補足〜1 旧楠本正隆屋敷(県・市文化財) 屋敷・庭園とも良く残され、 大村の武家屋敷の貴重な遺構として公開され、 建物が長崎県の有形文化財に、 建物を含む敷地全体が、 大村市の史跡に指定されています。 毎年、3月末から4月初旬にはひなまつり、 秋にはライトアップといったイベントも行われます。 ・開館時間 9:00〜17:00 ・休館日 月曜日(月曜日が祝日の時は翌平日)、年末年始 ・入館料 大人 200円 小中学生 100円 ・電話 0957-52-9885 大村市玖島2丁目291 |
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H 補足〜2 新潟市の白山公園に 楠本正隆の功績をたたえ、 後世に伝えるため平成元年三月に銅像を建立。 |
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I 補足〜3 『楠本正敏』(くすもとまさとし) 慶応2年(1866)〜昭和13年(1938) 都新聞社長・男爵。 幼名、清七郎。 父、楠本正隆(長男)。 明治35年(1902)父の死を受け都新聞(東京新聞)社長となる。 明治43年(1910)から大正14年(1925)まで貴族院議員。 日本競馬協会の創立に尽力し、 評議員をつとめる。 73歳没。 |