幕末期 長崎で活躍した人物 
     
 「小松帯刀」−1
 次へ

「小松清廉」

(1)

小松 清廉(こまつ きよかど)

天保6年(1835)〜明治3年(1870)

薩摩藩士、明治時代初期の政治家。

本姓は平氏(平惟盛入婿により建部氏より改姓)。

家系は禰寝氏嫡流の小松氏当主。

通称は尚五郎、帯刀。

元の諱は兼才。

官位は従四位玄蕃頭。

家紋は抱き鬼菊の葉。

一般には小松帯刀(こまつ たてわき)の呼び名で知られる。

「小松清廉」


(2)


天保6年(1835)薩摩国鹿児島城下の喜入屋敷にて

父、喜入領主・肝付兼善(5500石)

母、重富領主・島津又左衛門久貫の娘

の三男として生まれる。

領主の家柄だけにしっかりとした教育がなされ、

10才から儒学と和歌を学び、

一時期薩摩琵琶に熱中するが、

16才になるころから武術、馬術に励むようになり、

とくに馬術は達人の域に達した。

安政2年(1855)奥小姓、御近習番に任じられ

初めて江戸に上るが、

安政3年(1856)吉利領主・小松清猷(2600石)が

琉球使節役在任中、29歳で没したため

斉彬の命で急拠薩摩に帰国した。

当時小松家は吉利の領主であり、

小松家を絶やさないために

跡目養子となって家督を継承し、

宮之原主計の養女となっていた清猷の妹・千賀(近)と結婚した。

藩主・斉彬の命であった。

千賀は尚五郎より年長であったが、

小松家は一所持の家格の領主で、

力量手腕によっては家老にもなれる家柄であった。

安政5年(1858)帯刀清廉(きよかど)と改名。
「小松清廉」

(3)

長崎で西洋水雷などを研究した後の文久元年(1861)

島津久光に才能を見出されて側近となり

大久保利通と共に藩政改革に取り組んだ。

文久2年(1862)には久光による上洛に随行し、

帰国後は家老職に就任した。

薩英戦争では、

研究した水雷を鹿児島湾に配置するなど尽力する。

戦後はいち早く英国との関係修復にも動いた。

集成館を再興して

特に蒸気船機械鉄工所の設置に尽力する一方で、

京都に駐在し

主に朝廷や幕府、諸藩との連絡・交渉役を務め、

参与会議等にも陪席した。

他方で御軍役掛、御勝手掛、蒸気船掛、

御改革御内用掛、琉球産物方掛、唐物取締掛など

兼務するなど藩政をリードし、

大久保や町田久成とともに洋学校開成所を設置した。

元治元年(1864)グラバーから

イギリス船2隻を購入している。

禁門の変では幕府から出兵を命じられるも

当初は消極的な態度を示したが、

勅命が下されるや薩摩藩兵を率いて

幕府側の勝利に貢献した。

この時長州藩の残した兵糧米を

戦災で苦しんだ京都の人々に配っている。

第一次長州征討では長州藩の謝罪降伏に尽力している。

このころ勝海舟は幕府軍艦奉行を罷免され

塾生の今後について西郷への相談話を聞き

龍馬以下神戸海軍操練所の塾生30人ほどを

大坂薩摩藩邸に引き取った。


愛用の琵琶


次へ


                                       



吉いわさき弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎 岩崎弥太郎 岩崎 弥太郎