@ 天保6年(1835)〜明治37年(1904) 幕末の武士(大村藩士) 明治の官僚・政治家 元老院議官、貴族院議員等を歴任。 爵位は男爵。 名・武勝、通称・清左衛門、号・東山。 肥前国大村に 大村藩士・渡辺巌の長男として生まれる。 大村藩三十七士の一人 弟の渡辺昇とともに明治維新の志士として奔走。 |
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A 清は天保6年(1835)に 玖島城下岩船で生まれ、 五教館で学びました。 父は巌といい、 藩で寺社奉行、宗門奉行を務めた。 三城七騎籠もりで活躍した渡辺伝弥九の子孫。 西郷隆盛と勝海舟とで行われた 江戸城無血開城の会談に 西郷に指名されて同席し、 会見の模様を世に伝えた。 江戸城総攻撃予定日の前日に、 英国公使ハリー・パークスと会見し、 パークスが江戸攻撃には反対である旨を 西郷隆盛に伝えた。 |
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B 戊辰戦争では、 東征軍監、奥羽追討総督参謀として従軍し、 磐城の戦いなどに参戦。 その功により賞典禄450石を受けた。 明治に入り政府に出仕。 徴士民部官権判事、同権大丞、民部大丞、 厳原県権知事、大蔵大丞などを歴任。 明治7年(1874)福岡県令となり、 明治14年(1881)まで務め、 退任後に元老院議官に就任。 |
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C 明治20年(1887) 戊辰戦争の功により男爵を叙爵。 明治23年(1890)貴族院男爵議員に選出され 死去するまで在任した。 明治24年(1891)福島県知事に就任し、 明治25年(1892)に退任した。 その他、高等法院予備裁判官などを務めた。 長女 石井筆子(滝乃川学園長) 養子 渡辺汀(海軍大佐・滝乃川学園長) 弟 渡辺昇 (貴族院議員・子爵・ 大日本武徳会創設者の一人) |
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D エピソード 大村純熈は、 藩内で大村七騎と呼ばれる名家出身の渡辺清に、 藩士編成による倒幕部隊を編成させます。 大村藩はわずか2万7000石。 兵力は乏しいのですが 逆に少数であることを活かし、 少数精鋭の火力軍団を結成。 銃撃二個小隊と、大砲隊、 あわせて100名の「新精組」です。 刀剣中心の幕軍に対して、 銃撃や大砲などを持つ新精組は強く 少数ながら、桑名城を落とし、 赤報隊を逮捕し、三月初めには 官軍の先鋒として箱根を無血占領します。 隊長の渡辺清は、 西郷隆盛と勝海舟の江戸城開城の場に 大村藩を代表して立ち会う事になります。 その後には上野山で彰義隊と戦い、 さらには奥州方面の戦いにも参戦し、 戊辰戦争後は江戸の警備に就いています。 わずか100名程度の少数兵力でありながら、 見事な成果をあげます。 |
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E 補足〜石井筆子〜1 文久元年(1861)〜昭和19年(1944) 明治〜昭和期の教育者。 女性の教育と地位向上に力を注ぎ 『障害児教育の母』と呼ばれる。 父・渡辺清と母・ゲンの長女として 肥前国大村で生まれた。 渡辺清は大村藩士として 弟・昇(のぼり)とともに討幕派として活躍し、 戊辰戦争では官軍の 東海道軍軍監として大村軍を率いた。 江戸城明け渡しの会談では、 西郷の副使として付き添うなどの功労により、 明治維新後は、弟の昇とともに爵位を授けられ、 上京して高級官僚となった。 福岡県令をはじめ各地の県令を歴任した。 |
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F 補足〜石井筆子〜2 明治5年(1872) 筆子は11歳のとき家族とともに上京 国立の東京女学校(竹橋女学校)に入学。 同級生に渋沢栄一の娘・歌子 明治7年には筆子と同年齢の鳩山春子が入学。 ちなみに、東京女学校で学んだ生徒としては 富森幽香(水口藩医・巌谷修の二女)、 松岡美知子(博多藩医・松岡蓬州の娘)がいた。 |
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G 補足〜石井筆子〜3 父・清が明治8年(1875)に 福岡県令に任じられたために 家族とともに福岡に赴任するが、 筆子は学業半ばのために東京に残り、 勝海舟の屋敷内で、 商法講習所(一橋大学の前身)教授 ホイットニーの娘クララから英語を学んだ。 ホイットニー家は聖公会の信者であったことから、 筆子はクララからキリスト教の影響を受ける。 明治10年(1877)竹橋女学校は 西南戦争のため経費節減により廃止。 筆子は幼少から英語、フランス語、 オランダ語に堪能だった。 フランス語は貞明皇后の少女時代に 家庭教師をつとめるほどの力量だった。 |
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H 補足〜石井筆子〜4 明治13年(1880) 筆子は皇后の命によって 旧大村藩主とともにイタリアへ、 次いでフランスへ留学。 明治17年、官吏小鹿島果と結婚。 鹿鳴館時代の幕開けの時代到来で、 筆子も舞踏会にしばしば姿を現した。 その当時のことをドイツ人医師トク・ベルツが 『ベルツ日記』のなかで 才色兼備の筆子の面影をしのばせる記述をしている。 |
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I 補足〜石井筆子〜5 明治18年(1885)華族女学校が開校。 明治10年をもって興立した学習院は 男女の生徒を容れてともに教育してきたものの 男女の天賦、任務や使命の別、等の理由により 学習院女子部を廃止 新たに四谷区四谷仲町に設置。 筆子は、華族女学校に尽くすかたわら 明治19年(1886)大日本婦人教育会の設立に 棚橋絢子や木村貞子と奔走、 女子教育の普及に力を注いだ。 その主唱は、時代の欠陥を補い、 女子教育の普及進歩をはかり、 日本女性の徳操を養成することが急務であるとした。 これに賛同した下田歌子や武田錦子らが協力。 |
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J 補足〜石井筆子〜6 明治25年に付属女学校(女紅学校)を 翌年には女子小学校を付設。 また、同年4月に京都御苑内で開催された 第一回婦人製品博覧会に 女紅学校生徒の作品を御買上の光栄に浴した。 筆子の並々ならぬ献身ぶりが伺われるが、 筆子の人的交流の幅の広さ、 とりわけ皇族とのかかわりは 会の推進に大きな役割を担ったことをうかがい知れる。 |
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K 補足〜石井筆子〜7 明治31年文部省の要請で アメリカのデンバー市で開催される 婦人倶楽部万国大会に日本の婦人代表として 華族女学校の同僚津田梅子と二人が出席。 デンバー市での大会の後は シカゴの孤児院、身体障害児の学校、 身体障害者の家、ボストンの女子感化院 などを見学してまわった。 またブリンマー女子大学、オガンズ女学校も訪問。 イギリス人キャンタベリー大監督夫人他18名の名で、 イギリスにおける教育事業、社会事業の視察、 そしてケンブリッジ大学での研究を望む招待を受ける。 筆子は、せっかくの招待であるが、 津田梅子に譲ってひとり帰国。 だが、さまざまな憶測、誹謗中傷に悩まされ 翌年の暮、帰国した津田梅子とともに 華族女学校を退職した。 |
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L 補足〜石井筆子〜8 華族女学校を退職後、 キリスト教系の静修女学校で校長として勤めた。 小さな私塾で、 イギリス人の住居をそのまま利用したもの。 生徒数も50名そこそこだったが 当時の財界・政界で名のある者の 子女が寄宿や通学していた。 のちに夫となる石井亮一も、 一時ここで教鞭をとる。 学校の授業に華道や琴の時間を取り入れ。 朝夕の生活も生徒と一緒に過ごすことが多く、 人形つくりや料理の腕を振るった。 学校行事として 明治女学校や滝乃川学園の 慈善バザーのお手伝いを生徒とともにした。 明治30年、夫・小鹿島果が病死。 それから数年後に静修女学校が閉校。 在校生と建物は津田塾を始めていた津田梅子に そのまま移譲 |
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M 補足〜石井筆子〜9 実は、亡夫・小鹿島果との間に3人の娘がいたが、 3人に知的障害があった。 そのため早くから石井亮一の経営する滝乃川学園に、 3人のうち1人を預けていた。 静修女学校時代からしばしば滝乃川学園を訪れ、 学園の中にある教会にも通っていたが、 女学校を津田梅子に移譲してからは 滝乃川学園にすべてを打ち込むことになる。 やがて周囲の強い反対を押し切って 明治36年(1903)石井亮一と再婚した。 筆子は学園内に附設されていた保母養成部で 英語、歴史、習字そして裁縫などを教えた。 しかし、教鞭をとる以上に 学園経費の捻出にその労力のほとんどを費やした。 大正9年の出火で6名の子どもが焼死 自身も片足を痛めて不自由な身となる。 夫・亮一と死別し、 園長就任をしたものの過労で脳溢血で倒れ、 車椅子の身にもなった。 大正9年の出火を機会に、 学園は渋沢栄一を理事長とする財団法人になったものの、 経済的窮乏は変わらなかった。 こうした窮乏のなかでも 大隈重信が別荘にするはずだった国立市谷保の 土地を購入して、巣鴨から移動。 現在の滝野川学園の場所である。 |
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N 補足〜石井筆子〜10 筆子を誇り高く支えたのは 職員や園児もそうであろうが、 皇室とのつながりが大きかったようだ。 度重なる皇室からの援助や励まし、 また皇族の学園来訪は 窮乏にあえぐ学園を物心両面で支えた。 また筆子も終生皇族への礼を絶やさなかった。 夫亮一を失って6年余り、 半身不随のなか園長として学園運営に尽力したが、 昭和19年激しい戦火のもとで 数人の保母に看取られて亡くなった。 79歳だった。 著書 『火影』『過ぎし日の旅行日記』 『自然界とおとぎばなし』など |
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