@ 寛政12年(1800)〜慶応2年(1866) 江戸後期の長崎の南画家。 鉄翁祖門・三浦梧門と共に長崎三大文人画家とされる。 幼名弥四郎といい、 のちに通称を志賀之介とした。 諱を相宰。字は公宰。 逸雲は号、ほかに如螺山人・物々子。 室号を養竹山房・荷香深処とした。 |
![]() |
|
A 長崎八幡町乙名(町役人)木下清左衛門勝茂の 三男に生まれる。 木下家は本姓藤原氏で、 代々八幡町の乙名職を勤めた家柄 文化14年(1817)18歳で 兄潤太郎従賢の跡を継いで乙名となる。 文政12年(1829)30歳で辞職し、 その役を兄の子勇之助隆衡に譲る。 自身は元来関心のあった医師を生業とし、 医門名を得生堂と称した。 蘭医オットー・モーニケによって伝えられた種痘術の 普及に努めている。 |
![]() 車庫で車を止めてる右横です |
|
B 画は、はじめ唐絵目利の石崎融思に学び、 来舶清人の江稼圃・張秋谷からは 南画の技法を修めた。 その後も清人陳逸舟、徐雨亭にその画風を学んだ。 さらに雪舟、狩野派・大和絵・ 円山四条派などの諸派や 西洋画の画法を熱心に研究し、 様々な技法を取り入れた。 |
||
C 画僧鉄翁祖門と画を共に学び生涯の友となった。 逸雲は筆が早く、 遅筆の鉄翁と対極をなした。 田能村竹田・頼山陽・広瀬淡窓など文人と交わった。 門人に、河村雨谷・津田南竹・池島村泉。 また姉の小蘭、甥の秋塘も画家である。 逸雲は多芸多才で知られ、 書・篆刻を能くし、 琵琶の演奏・制作に巧みで、 煎茶をたしなみ、 藤原相宰の名で優れた和歌を詠んだ。 |
![]() |
|
D また白磁染付で知られる亀山焼の発展に尽くし、 自ら絵付けも行っている。 長崎円山花月楼清譚会の世話役を務め、 日中文化交流を促した。 慶応2年(1866)4月、京阪・江戸に漫遊し、 同年8月横浜から長崎行きの イギリス船黒龍号に乗船するも、 玄界灘で海難事故に遭い、 帰らぬ人となった。 享年68。 墓は禅林寺内墓地にある。 |
![]() |
|
E 補足〜1 黄檗僧の渡来とともに、 長崎には北画の系統が伝えられましたが、 当初は一部の人がそれを学んだに過ぎませんでした。 享保16年の沈南蘋の渡来と前後して、 伊孚九や費漢源が来舶して南画の画法を伝えると、 長崎の画人達に注目され、 一方では、中国趣味を尊んだ 文人達の間に定着して行きました。 さらに、19世紀の中頃になると、 江稼圃などの渡来によって、 長崎の南画は本格的なものとなり、 長崎三画人と呼ばれた鉄翁祖門、 木下逸雲、三浦梧門などによって大成されました。 そして、これら南画は、 文人画とも呼ばれて全国に広まり、 池大雅・与謝蕪村・田能村竹田・谷文晁などが活躍、 江戸時代後期のわが国画壇に 主要な地位を占めるようになりました。 当時長崎は全国から画を志す画人が多く集まりました。 |
![]() 鉄翁祖門 |
|
F 補足〜2 上野彦馬は家業を継ぐには洋学が必要であったため、 後見役として面倒を見ていた木下逸雲のはからいで 豊後国日田の広瀬淡窓の私塾、咸宜園へ入門する。 嘉永6年(1853)4月24日16歳の時である。 |
![]() |
|
G 補足〜3 亀山焼は文化4年(1807)八幡町大神甚五平等によって 伊良林に開窯する。 慶応元年(1865)まで60余年の歴史を有する。 最初は外国船に積み込む水瓶を製作したのだが 需要が少なくなり文化11年(1814)頃より 天草陶石を使って白磁染付へと変わってゆく。 文久元年12月に休業を決めた甚五平は 公的な借入金と個人からの借金の始末を 同町(八幡町)乙名木下志賀之助及び 木下逸雲と相談していたと思われる。 後、慶応元年5月に 「亀山一件、口上之覚」として 木下志賀之助が町年寄後藤惣左エ門、 薬師寺久左エ門へ事の成り行きを列挙した文書を提出。 |
![]() ![]() 火入れ亀山焼き |
|