(1)川原 慶賀(かわはら けいが) 天明6年(1786)〜万延元年(1860) 江戸時代後期の長崎の画家 出島出入絵師として 風俗画、肖像画に加え 生物の詳細な写生図を描いた。 名は登与助(とよすけ)、種実。 号は慶賀、聴月楼主人。別姓に田口。 長崎の今下町(長崎市築町)に生まれる。 父・川原香山も町絵師であった。 当時の長崎で第一人者の石崎融思に師事し、 その後ろ盾により頭角を現す。 出島オランダ商館への出入りを許され 長崎の風俗画や風景画、 出島での商館員達の生活等を描いた。 文政6年(1823)にシーボルトが商館付医師として来日 日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、 精細な動植物図を描いた。 |
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(2)川原 慶賀 文政9年(1826)のオランダ商館長の江戸参府の折 シーボルトと同行し 道中の風景画、風俗画、人物画等を描いた。 これらに使用された紙、顔料、支払われた給与などは オランダ政府から支給され 絵図のほとんどはオランダへ発送された。 文政11年(1828)のシーボルト事件に際しては 多数の絵図を提供した慶賀も 長崎奉行所で取り調べられ、投獄。 シーボルト追放後、 シーボルトを慕う人々によって煙草入れが シーボルトの元へ送られたが この煙草入れの蓋は、 慶賀が描いた楠本滝と楠本イネの肖像画で 表裏に螺鈿細工されている この「シーボルト妻子像 螺鈿合子」は 長崎のシーボルト記念館に展示されている |
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(3)川原 慶賀 その後もシーボルトの後任となった ハインリヒ・ビュルガーの指示の元、 同様の動植物画を描いた。 しかし、天保13年(1842)、 オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に 当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩) と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れた。 これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、 江戸及び長崎所払いの処分を受けた。 長崎を追放された慶賀は、 長崎半島南端・野母崎地区の集落の1つである脇岬に居住 脇岬観音寺に残る天井絵150枚のうち 5枚に慶賀の落款があり、 50枚ほどは慶賀の作品ともいわれる。 また、この頃から別姓「田口」を使い始めたと言われる |
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(4)川原 慶賀 その後の消息はほとんど不明で、 正確な没年や墓も判っていない。 ただ、嘉永6年(1853)に来航したプチャーチンの 肖像画が残っていること、 出島の日常風景を描いた唐蘭館図は 開国後に描かれていること、 慶賀の落款がある万延元年(1860)作と推定される絵が 残っていることなどから 少なくとも75歳までは生きたとされている。 一説には80歳まで生きていたといわれている。 慶賀の息子で、 慶賀の後を継ぎ長崎版画を描いた浮世絵師川原廬谷の 嘉永6年(1853)頃に描かれた作品を見ると、 構図、細部描写といい慶賀の作風と近似しているため、 長崎払いを受けた以後の慶賀の晩年は、 息子廬谷と共に作画したと見られる。 天保7年(1836)に上梓された『慶賀写真草』には 川原慶賀筆、男廬谷校とある 川原廬谷(ろこく) 『唐通事彭城(さかき)氏絵像』 |
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(5)川原 慶賀 慶賀は伝統的な日本画法に西洋画法を取り入れていた。 また、精細な動植物図については シーボルトの指導もあった。 シーボルトは植物研究のための標本デッサンを 正確に描くためには どうしても西洋画法に精通した絵師が必要であった。 そのためヴァタビア総督に画家の派遣を要請している。 この要請に応えて文政8年(1825)来日したのが 薬剤師のビュルガーと 専門の画家ではないものの絵心のあった デ・フィレニューフェであった。 慶賀は、このデ・フィレニューフェから 西洋画法の手ほどきを受けることとなる。 日本に現存する作品は約100点だが、 オランダに送られヨーロッパ各地に分散した絵図は 6000-7000点ともいわれている。 慶賀が描いた動植物図のほとんどはオランダに送られ、 シーボルトらの著作である 『日本動物誌』等の図として利用された。 標本がなく、慶賀の写生図をもとに 記載されたウミヒゴイなどの例もある。 これらはライデン国立自然史博物館に所蔵されているが、 その精密な図は 今猶生物学者の使用に耐える標本図となっている。 動植物図以外にも 長崎をはじめ日本各地の風俗画、風景画、 肖像画などが多数残されている。 唐蘭館図は長崎歴史文化博物館所蔵で、 国の重要文化財に指定されている |
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(6)川原 慶賀 川原慶賀がどんな人物だったのかについては、 残された作品の数とは逆に、 資料も少なくたいへん謎が多い。 本人の肖像画もありません。 長崎画壇の中心的存在だった 地役人である唐絵目利の文献資料にも 慶賀の名は一切出てきません。 これは厳しい身分制度の時代、 慶賀の身分が一介の町絵師にすぎなかった からだといわれています。 唐絵目利は日本側の絵師として西洋の文物を描き 慶賀は西洋側の絵師として日本を描いた といえます。 シーボルトの注文に応じ、 踏絵、端午の節句、精霊流し、ハタ(凧)揚げなど 長崎の「年中行事」、 また出生から墓参りまでの「人の一生」、 「職人尽くし」、「動植物」など、 日本や長崎の姿を詳細に描きました。 シーボルトは、これらの資料で 日本をヨーロッパに紹介し、 日本研究の第一人者となりました |
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