@ 嘉永2年(1849)〜明治7年(1874) 江戸時代後期(幕末)の佐賀藩士。 佐賀の乱の首謀者の一人。 嘉永2年(1849)佐賀城下早津江に 香月三之允の長男として生まれる。 幼少時は愚鈍とみられていたが 発奮し藩校弘道館で勉学に励んだ。 その甲斐あって慶応3年(1867)には 佐賀藩が長崎に設立した英学校致遠館に進んで頭角を現した。 |
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A 明治維新後は江藤新平の元、東京に遊学し、 山中一郎と共に「藤門の双璧」と謳われた。 明治2年(1869)大学南校(東京大学の前身の一つ)に入学 翌年には文部省により選抜されアメリカに留学した。 さらに明治4年(1871)の岩倉使節団の際には 旧藩主鍋島直大の通訳を務め さらに直大と共にイギリスにわたり オックスフォード大学で経済学を学んでいる。 |
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B 明治6年(1873)に帰国してからは征韓論に伴う明治6年政変により 江藤新平が職を辞したためこれに同行し佐賀県中属に任官した。 佐賀の乱でははじめ佐賀県参事の森長義と連絡を取り 出兵の猶予を働きかけたが失敗し江藤と共に本陣に備えた。 戦闘に敗れてからも佐賀を脱出する江藤に同行し 鹿児島、四国へと向かったが土佐にて捕えられた。 乱後の裁判にて斬首。 享年26で、中島鼎蔵と共に最年少であった。 |
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C 明治初期の海外留学生 明治4年(1871)までに全国で281人が海外に留学しています。 うち佐賀県出身者は34人。 (官)=官費留学生、(県)=県費留学生、(自)=自費留学生です。 英国(イギリス)へ 丹羽龍之助(官) 横尾弾九郎(県) 執行鎌九郎(県) 八戸欣三郎(県) 高木報造(県) 古川常一郎(県) 古川研二郎(県) 倉永猪三郎(県) 鶴田探一(県) 志波虎二郎(県) 木下周一(県) 袋久平(県) 円城寺権一(県) 辻小伝太(県) 横尾平太(県) 石橋宗九郎(自) 米国(アメリカ)へ 香月経五郎(官) 大塚綏二郎(官) 村地才一郎(官) 仏国(フランス)へ 大塚琢蔵(県) 山口賢五郎(賢) 福地鷹次(県) 浅田逸次(県) 孛国へ 大石良二(官) 相良元貞(官) 辻春十郎(県) 長尾俊次郎(県) 吉武桂山(県) 石川助三郎(県) 諫早千吉郎(自) 峠源次(自) 白耳義国へ 古賀護太郎(官) 清国(中国)へ 福島禮介(官) 成富忠蔵(官) |
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