@ 『ヴィレム・ヨハン・コルネリス・ホイセン・ ファン・カッテンディーケ』 (Willem Johan Cornelis ridder Huijssen van Kattendijke) 1816年〜1866年 オランダの海軍軍人、政治家。 日本においては単に「カッテンディーケ (またはカッテンダイケ、カッテンデイケ、 カッテンデーケなど)」 と表記されるが 「ホイセン・ファン・カッテンディーケ」が 正式な姓である。 |
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A 1857年(安政4)9月21日、 幕末に徳川幕府が発注した軍艦ヤーパン号 (後の咸臨丸)を長崎に回航し、 幕府が開いた長崎海軍伝習所の 第1次教官ペルス・ライケンの後任として 第2次教官となる。 勝海舟などの幕臣に精力的に 航海術・砲術・測量術などの 近代海軍の教育を行う。 |
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B 2年後の1859年 長崎海軍伝習所は閉鎖となり帰国。 1861年、オランダ海軍大臣となり、 一時は外務大臣も兼任した。 1866年オランダで50才で亡くなりました。 なお回想録『長崎海軍伝習所の日々』 (水田信利訳、平凡社東洋文庫)が訳されている。 カッテンディーケの教育を受けた 勝海舟の立案によって、 1864年に西洋式の 海軍士官養成機関・海軍工廠である 神戸海軍操練所が設立された。 |
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C カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力 〜長崎海軍伝習所の日々〜1 カッテンディーケが著わした回顧録 『長崎海軍伝習所の日々』には、 外国人の視点から 幕末の長崎の風景が詳細に描かれ、 興味深い記述が多く見られます。 ある日、カッテンディーケは 稲佐悟真寺にある国際墓地に出かけ、 数年前に出島で亡くなったオランダ人の墓碑に 供えられている新鮮な花を発見しました。 尋ねると、 故人は遊女を身受けし同居していたが 幸福な時間は長く続かず、 重病にかかり、献身的な看護も実らず亡くなり その彼女が年2回の彼岸の日に墓参りをして、 花を供えているというのです。 彼が亡くなったあと再び遊廓に戻り のちに僧侶の妻となります。 異教徒の国際墓地に墓参りをするという事実も、 長崎の特異な海外交流史のなせる 宗教的寛容さかもしれません。 カッテンディーケ自身も、 部下の水兵を病で亡くし国際墓地に埋葬した際に、 近所の寺(稲佐悟真寺と思われる)の僧侶からの 「仏式の経を唱え線香をあげたい」 という申し出を快く受けています。 |
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D カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力 〜長崎海軍伝習所の日々〜2 開港後の長崎では、 しばしばコレラが発生している。 海軍伝習所には 日本近代医学の創始者ともなった 医師ポンぺがいて、 流行を防ぐことに活躍している。 カッテンディーケの在任中にも コレラが発生した。 本当なら恐慌も起きるはず。 ところが、長崎の人たちは少しも騒がない。 それどころか、町中で行列を作って、 太鼓を叩いて練り歩き、 鉄砲を打って市民の気を浮き立たせ、 厄除けをしていた、 と驚嘆している。 また、葬儀の棺を担ぐときも、 あたかもお祭り騒ぎのように戯れていた と書き、 「日本人は死を恐れないことは格別である」 と感想を述べている。 |
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E カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力 〜長崎海軍伝習所の日々〜3 日本では婦人は、 他の東洋諸国と違って、 非常に丁寧に扱われ、 女性の当然受けるべき名誉を与えられている、 という。 婦人は、社会的には、 ヨーロッパのようにあまりでしゃばらない。 男より一段へり下った立場に甘んじているが、 決して婦人は軽蔑されているのではない。 私は日本美人の礼賛者というわけではないが、 彼女らの涼しい目、美しい歯、 粗いがふさふさとした黒髪を きれいに結った姿のあでやかさを 誰が否定できようか、 と絶賛する。 しかも、しとやかで、 すこぶる優雅である、とほめちぎる。 でも、 「私が日本で、実に美人だと思った女は 数名に過ぎなかった」とも。。。 |
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F 祖国に帰るときに 「自分がこの国にもたらそうとしている文明が、 果たして一層多くの幸福をもたらすか自信がない」 という言葉を残している。 彼自身は西洋文明の優越を感じ自負しながらも、 日本を開国していわゆる西洋流の 「進歩」をもたらすことの弊害に 躊躇をしているのである。 日本を訪れた多くの異邦人が、 日本を美しい国と称し、日本人を 「幸福そうだ」と形容してるのである。 「この国の質朴な習俗」とともに、 その「飾り気なさ」を讃美し、 この国土の豊かさを見て、 「子供たちの愉しい笑声」を聴き、 「幸福な情景」に神聖なものを感じ、 感動しているのである。 |
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G 第一次教師団の団長であったライケンは、 「狭く、深く」追求するタイプで、 何事も中途半端な知識をとても嫌いました。 一方の第二次教師団のカッテンディーケは、 「広く、浅く」のタイプで、 できるだけ伝習生には 多くの知識を教授するよう努めた 正反対の人物でした。 勝海舟の江戸っ子気質と、 このカッテンディーケの大らかさは、 何か通じるものがあったのでしょう、 勝海舟にオランダ語の文法書を贈るほど、 カッテンディーケと海舟は気が合いました。 |
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H 『長崎海軍伝習所』 安政2年(1855)に江戸幕府が 海軍士官養成のため長崎に設立した教育機関。 幕臣や雄藩藩士から選抜して、 オランダ人教師によって 西洋技術・航海術・蘭学・諸科学などを学ばせた。 安政2年(1855)第1期生は 江戸出身者37名と他藩128名 (薩摩藩16名・肥後藩5名・筑前藩28名・ 長州藩15名・肥前藩47名・津藩12名・ 備後福山藩4名・掛川藩1名)、 安政3年(1856)第2期生は幕臣12名、 安政4年(1857)第3期生は26名集まったが、 安政4年(1857)3月に 総監永井尚志はじめ多数の伝習生が 新設された築地軍艦操練所に移動したため、 長崎海軍伝習生は45名程になった。 安政6年(1859)には閉鎖され、 慶応2年(1866)には横浜海軍伝習所が設立された。 |
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