幕末期 長崎で活躍した人物 |
![]() |
![]() |
(7) 「長岡謙吉」(ながおか けんきち)
天保5年(1834年)- 明治5年(1872年7月16日) 幕末期の土佐藩出身者 海援隊の隊員の一人 別名は今井純正、敦美、字は子行、号は懐山 高知城下の町医者今井孝順の長男 幼少期は河田小龍のもとで蘭学を 江戸や大坂に遊学して、医学や文学を学んだ。 1859年には家業の医師を継ぐために、 長崎にてシーボルトから医学を学ぶが、 このときキリスト教に傾倒したと疑われ蟄居 やがて脱藩して長崎に赴き、 坂本龍馬のもとで海援隊に参加した。 龍馬は長岡の才能を高く評価し、 海援隊の通信文書の作成など、 事務処理のほとんどを長岡に一任していたという。 1867年、夕顔丸に坂本龍馬や後藤象二郎らと同船し、 大政奉還後の龍馬の構想をまとめた「船中八策」を起草した。 キリシタン問題を論考し「閉愁録」を出版 龍馬が暗殺されると、海援隊の二代目隊長に選ばれた。 明治維新後は三河県知事、大蔵省、工部省などに勤務 1872年に東京にて若くして死去した。享年39。 |
![]() |
|
(8)
石田英吉(いしだ えいきち)
天保10年(1839)〜明治34年(1901)
幕末の武士、明治の政治家、男爵
坂本龍馬門下、土佐国の人。
変名を伊吹周吉(終吉とも)、のち伊吹慶良という。
土佐藩の医師伊吹泰次の長男に生まれる。
大坂の適塾で緒方洪庵に師事し医術を学ぶが
志士・吉村寅太郎に心酔し天誅組に加わって大和挙兵に参陣
敗れた英吉はやむなく長州に落ち延び再起を決意
でも蛤御門の変で負傷。
三条実美らとともに都を落ち延びたいわゆる「七卿落ち」
その後、再び長州に逃れた英吉は
そこで高杉晋作と合流し奇兵隊創設に貢献する
優秀な人材を買われて龍馬の側近くで活動。
亀山社中成立の頃より龍馬に従い、
海援隊創設時は長岡謙吉とともに活躍
下関海戦ではユニオン号の指揮を
めざましい戦果を挙げた。
龍馬の死後、
長岡に従い後進の指導にあたるなど組織をまとめた。
海援隊解散後、明治の世となった後は
秋田県令・千葉県知事をはじめ多くの県知事職を歴任。
農政面での政策では多大な功績を残した。
英吉の愛弟子である陸奥宗光は
農商務大臣に就任した際、
英吉を次官に迎え国政を相談したと言われている。
貴族院議員をつとめたのち
京都で明治34年(1901)63歳で没した。
龍馬配下としては指折りの逸材とも言われ、
医術者を志していた共通の境遇を持つ長岡と
「二吉」と賞された
|
![]() |
|
(9)
坂本 直(さかもと なお)
天保13年(1842)〜明治31年(1898) 武士・海援隊隊士 坂本龍馬の甥であり、龍馬暗殺後は家督を継ぐ 幕末は高松太郎と名乗る。 土佐藩の郷士、高松順蔵と 母・千鶴(龍馬の実の姉)の長男として生まれる。 19歳の時九州へ、そこで武市半平太に出会い、 それがきっかけで土佐勤王党に加盟 尊皇攘夷運動を始める その後叔父の龍馬の紹介で勝海舟の弟子となる。 神戸海軍操練所で航海術を習う 文久3年(1863年)に脱藩。 一時薩摩藩に匿われるが、 龍馬らと長崎で亀山社中を結成 士官として長州藩船ユニオン号を購入するなど活躍 王政復古後、函舘裁判所権判事として函館に赴任 旧幕府軍が函館に侵攻してくると 清水谷公考総督らとともに青森に撤退する。 明治4年(1871)暗殺された龍馬の家督を継ぎ、 朝廷から永世十五人扶持を給せられ、 名を坂本直と改める。 晩年は弟の坂本直寛宅に住む。 明治31年(1898)病気のため死去。 蝦夷地開拓を夢見ていた叔父・龍馬の遺志を継ぎ、 直の子・坂本直衛は北海道の羅臼町に移住している。 |
![]() |
|
(10) 菅野 覚兵衛(すがの かくべい) 天保13年(1842)〜 明治26年(1893) 志士、海援隊隊士、明治時代の軍人 千屋寅之助とも名乗る。 妻は起美(起美は坂本龍馬の妻・お龍の妹、龍馬の義兄弟 土佐藩の庄屋千屋民五郎の三男 土佐勤王党に加盟し活動 文久2年(1862)山内容堂を警護する五十人組に参加上京 坂本龍馬らともに勝海舟の弟子となる 神戸海軍操練所にも参加し学ぶ。 禁門の変の影響で神戸海軍操練所も閉鎖 覚兵衛は龍馬や陸奥宗光らとともに 長崎で亀山社中を結成し物産・武器貿易を行う。 第二次長州征討(四境戦争)では 社中の船・乙丑丸で長州藩海軍を支援 海援隊隊士として活躍するが 慶応3年(1867)に龍馬は暗殺される 戊辰戦争直前に長崎で起美と結婚。 その後戊辰戦争に参加し奥羽地方を転戦。 終結後は元海援隊隊士・白峰駿馬とともにアメリカに渡り ニュージャージー州のラトガース大学に留学。 帰国後は海軍省に入省 艦政局運輸課長、横須賀鎮守府建築部長等を歴任 海軍少佐になるが 西南戦争の前哨戦『弾薬掠奪事件』に関係し 海軍の中では不遇に終わる。 退官後は福島県郡山市の安積原野に入植 開拓事業に参加し活動するが 道半ばにて死去。享年52。 墓は東京都港区南麻布四丁目の光林寺境内。 土佐の人を絵に描いたような 気骨のある人物だったといわれている。 龍馬の死後、お龍(義姉)の面倒をよく見たと 覚兵衛をモデルにした映画も作られた |
![]() |
|
(11) 「新宮 馬之助」 新宮 馬之助(しんぐう うまのすけ) 天保7年(1836)〜 明治19年(1886) 土佐藩士・海援隊隊士 天保7年香美郡新宮村の農家・寺内信七の二男 脱藩後に新宮次郎、のち寺内新左衛門、 維新後新宮駆(しめ)。新宮維俊。 雅号は鬼国山人。天保9年生まれ説もあり。 高知で河田小龍に師事し学問や絵を学ぶ 同じ塾生に近藤長次郎がいる 布屋という旅宿と家業の焼き継ぎ屋を手伝う為 「焼継業修業」として江戸へ遊学。 遊学中に坂本龍馬の誘いで勝海舟に師事 神戸海軍操練所で航海術を学んだ後 長崎で結成された亀山社中に参加した。 慶応2年(1866)長州藩代表桂小五郎と 薩摩藩代表西郷隆盛が京都薩摩藩邸で会見 薩長同盟を締結した際には調停役として同席 海援隊の中心メンバーとして活躍 維新後は浦賀にあった海兵団に所属、 海軍大尉まで出世 長崎市で死去。享年50。 美男子だったがすぐ顔が赤くなるため 海援隊時代『赤づら馬之助』というあだ名がついた |
![]() |
|
(12) 「池内蔵太」 池 内蔵太(いけ くらた) 天保12年(1841)〜 慶応2年(1866) 幕末期の土佐藩の郷士。諱は定勝。 別名に細川左馬之助。細井徳太郎。 天保12年土佐郡小高坂村の用人池才右衛門定穀の長男 名を定勝。幼名駒次郎、 別名細川左馬之助、細江徳太郎。 土佐藩士の中でも身分の低い微禄の家柄 弘化元年父親の病死により御奉公役代勤を命じられ 扶持切米7石で家督を相続。 安政4年には神田村で私塾を開いた岩崎弥太郎に師事 学問修得に励み、近藤長次郎らが同門 1861年、江戸に出て安井息軒に師事 様々な藩の志士と交流 武市半平太と共に土佐勤王党の結成に尽力 1863年、山内容堂の命令を受けて大坂・江戸の視察 しかし容堂があくまで佐幕的な態度を貫いていたため、 尊皇攘夷に好意を抱いていた内蔵太は 土佐藩から脱藩して長州藩に逃げ込み、 長州の尊皇攘夷運動に参加 長州軍の遊撃隊参謀となり、 1863年5月10日のアメリカ船砲撃を指揮 天誅組の反乱に参加して天誅組が壊滅すると京都に潜伏 1864年に長州藩が軍を率いて禁門の変を起こすと、 長州軍の忠勇隊を指揮するなどして活躍している。 尊皇攘夷に傾倒していたのは確かだが、 一元化した動きがなく、あちらこちらにと様々な行動を展開 1865年、坂本龍馬が亀山社中を結成すると、 入社して龍馬と共に海軍創設に尽力する。 しかし1866年、長崎から薩摩藩へ 小型帆船・ワイルウェフ号を回航する途中で台風に遭遇し、 ワイルウェフ号と運命を共にする。享年26。 若すぎる死であり、龍馬は後継者として期待していた内蔵太の死去に、 「わしより先に死ぬ奴があるか。 わしより生きれば、わし亡き後の海援隊を継がせるつもりだったのに」 と嘆き悲しんだといわれている。 墓は長崎県南松浦郡有川町江ノ浜郷にある。 |
![]() |
|
(13) 安岡 金馬(やすおか かねま) 弘化元年(1844)〜明治27年(1894) 土佐郡福井村の庄屋、安岡忠郷の二男 名を忠綱。別名平安佐輔。 田野学館で学問を学び、 文久2年五十人組が結成されるとこれに加わり、 中岡慎太郎の組に入って活躍 文久3年同郷の千屋寅之助に誘われ勝海舟の門に入り 龍馬とも知己を深め航海術を学ぶ。 土佐勤王党への弾圧が始まり 勝塾で学ぶ土佐の塾生にも帰国命令が出ますが、 坂本龍馬や高松太郎ら多くの同志が脱藩する決意で修行を続ける中、 金馬は勝海舟と相談の上一旦土佐へ帰国 金馬は海舟に可愛がられ、 脱藩を決意して訪れた時に白地の筒袖を貰った話も しかし土佐では身の危険を感じ元治元年に脱藩して長州へ亡命 浪人部隊である忠勇隊に所属 土佐脱藩者の松山深蔵や久留米の真木外記が隊長を 中岡慎太郎や池内蔵太も所属 禁門の変にも参加 忠勇隊では大砲の照準係として活躍 土佐の同志吉井源馬らと回天隊を組織 対馬へ渡るなど活動を続け 中岡慎太郎らの周旋で再び長州で高杉晋作の保護を受け 三田尻の長州海軍へ 士官見習で庚申丸に乗り込み慶応2年の馬関海峡戦で活躍 再び龍馬に誘われ海援隊に参加 大極丸に乗りこみ活躍しています。 龍馬の死後は、その航海術や実務経験を買われて 土佐商会所有の順海丸の船長 琵琶湖に西洋型船を初めて浮かべている 維新後は大津裁判所湖水判事を務めた。 神戸において米人ワッチと事業を計画、 京都に外国人を案内した行為が当時の法に触れ 永禁固に処せられ高知で服役 明治6年には海軍少主計となり、横須賀海軍に 龍馬の妻であったお龍が再婚する時には媒酌人を 明治27年51歳で死去。 |
![]() |