@![]() 『(稲佐お栄)-1 道永エイ 道永エイは万延元年(1860)2月18日 熊本県天草郡大矢野島大字登立村で父作次郎、 母タエの間に次女として生れる。 大矢野島は天草四郎時貞の出身地としても有名である。 |
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A (稲佐お栄)-2 ![]() 明治5年(1872)12才の時、両親を相次いで失う。 遠縁を頼って茂木の旅館で女中奉公をする。 ![]() 明治12年(1879)12月、料亭・ボルガの女将・ 諸岡まつを紹介され稲佐に来る。 まつの世話で稲佐のロシア将校集会所で家政婦として働く。 |
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B (稲佐お栄)-3 稲佐はロシアマタロス休憩所が開かれて約20年をたった頃である。 ロシアは地元の庄屋、志賀家から千坪近い土地を租借し病院や艇庫や ![]() 小工場を建て、水兵たちの休養の場としていた。 稲佐村にはホテル、両替所、レストランが作られ、 またロシア海軍の兵士達は民家を借り受け住んでいた。 お栄はここでロシア語を修得する。 |
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C (稲佐お栄)-4 明治14年(1881)21才の時、バルト号の船長付のボーイとして ![]() ウラジオストクに渡る。1年後に帰国し、その後上海に渡る。 明治16年(1883)上海より帰国する。流暢なロシア語と社交術で、 再びボルガで働く。 |
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D (稲佐お栄)-5 明治22年(1889)ロシアの極東政策が本格化し ![]() 巨大な東洋艦隊が長崎に入港するようになった。 長崎港を見晴らす稲佐の台地に3百坪を借地し、 ホテル・ヴェスナー(春)をつくる。客室21、ロビー、 宴会場、遊技場も備えたホテルでは連日連夜、 海軍士官達によりカルタ遊びや酒宴が繰り広げられた。 |
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E (稲佐お栄)-6 明治23年(1890)30才にて 再度ウラジオストックに渡る。 明治24年(1891)、 ![]() ロシア皇太子ニコライが シベリア鉄道の起工式に 出席の途中ギリシャの ジョージ親王とともに 明治天皇の 招待で日本を訪れた。 |
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F (稲佐お栄)-7 長崎には4月27日に来て、 5月5日鹿児島を経て神戸へと出発する。 28日から3日間はお忍びで ![]() 「上野彦馬の店」で 写真を撮ったり、稲佐に上陸し、 5月3日は丸山の芸者を招いて宴会を開くなどした。 お栄はその宴席を取仕切り活躍した。 長崎への公式上陸は5月4日である。 皇太子はこの後5月11日に 大津事件に巻き込まれることとなる。 |
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G (稲佐お栄)-8 明治31年(1898)健康を損ね、 ヴェスナーの経営はまつに任せ、 平戸小屋(現在の大鳥町) ![]() の小高い丘の上に土地を買い、 ロシア高官だけを顧客とする 小ホテルと住居を建てる。 |
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H (稲佐お栄)-9 ![]() 明治35年(1902)大浦の外国人居留地に ロシア風ホテルを建てる。 明治36年(1903)6月、 日本とロシアとの関係が悪化の一途を辿りつつある中 ロシアの陸軍大臣クロパトキン (日露戦争では満州軍司令官)が軍事視察に来日し、 彼女のホテルに21日間滞在する。 クロパトキンはお栄に 「あなたはロシア海軍の母だ」と賛辞を送っている。 クロパトキンは予想以上に進む 日本の近代化と軍備拡張を目の当りにしてこれに驚き、 ロシア宮廷において対日非戦論を説いた・・・ が受入れられることは無かった。 |
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I (稲佐お栄)-10 クロパトキンは開戦とともに満州軍総司令官に任ぜられたが、 奉天会戦に敗れたことにより第1軍司令官に降格させられた。 戦後は革命に巻き込まれるなどしたが、 最後は小学校教師として生涯を終えている。 日露戦争が始まると彼女の一家は、 露探・ラシャメン・非国民などと罵られ、 家に投石され迫害された。 |
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J (稲佐お栄)-11 明治38年(1905)ロシアと講和が成立。 ![]() 旅順要塞地区司令官であったステッセル将軍も乃木大将との水師営会見後、 この年の1月15日、家族一行16名で稲佐に上陸し、 お栄のホテルに3日間滞在した。 ![]() お栄は紋付きの礼装で極上の紅茶、菓子、果物を出し心からもてなしている。 一行は庭先から見える港内の風景を異口同音に褒め称えたと言う。 一行は1月17日に上海に向け出発している。 |
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K (稲佐お栄)-12 ![]() 明治39年(1906)茂木に純洋館2階建てのビーチホテルを開業する。 階上に客室12、階下は宴会用の広間、 音楽室からなる近代的なホテルであった。 ![]() 彼女は長崎駅前に集まる200人もの人力車夫に毎月金一封を贈ったり、 市内に「欧米風の新ホテル、茂木の海岸に現る」と日英両文で書かれた ポスターを張り巡らすなどの宣伝を行ったこともありこのホテルは 開業後1ヶ月で増築をするなど大変繁盛した。 昭和2年(1927)5月12日の朝、数え年68才でその生涯を終えた。 場所は平戸小屋のホテル横の隠居部屋であった。 平戸小屋の隠居部屋があった家までの登り口に「お栄さんの道」とした 婢が建てられている。 |
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L (稲佐お栄)-13 ▼碑文 稲佐お栄と親しまれた道永エイは、 万延元年(1860)天草四郎で有名な天草大矢野島で出生、 ![]() 12才の頃来崎し、シベリア、上海へもロシアの軍艦で渡り、 長崎に落ち着いた後はホテル業を以て国際親善につくした。 ![]() 坂本龍馬ら勤皇の志士を助けた大浦お慶、 日本で初めての西洋流女医シーボルト おいねと共に長崎の三大女傑といわれる。 昭和2年(1927)数え年68才で波乱の生涯を閉じた。 |
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M (稲佐お栄)-1 4 稲佐お栄 海外交流編トップへ ▲国賓として訪れ、 ![]() 長崎で人力車での散策を楽しむロシア皇太子ニコライ ▲日ロ親善に尽くした稲佐お栄 ロシア皇太子をもてなした国際人 天草生まれの稲佐お栄こと道永エイは、 茂木に出て旅人宿の女中をつとめ、 明治12年(1879)数え年20のとき、 ![]() 長崎・稲佐で西洋料理店ボルガを 営む諸岡まつの紹介で近所のロシア将校クラブの雇い人となった。 色白の美人で、気も利くし社交上手である。 |
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N (稲佐お栄)-1 5 ![]() ロシア太平洋艦隊は冬期は、 結氷するウラジオストク港を避けて長崎に集結し、 稲佐はロシア海兵の上陸休養地になっていたが、 ロシア語も習得した才色兼備のお栄は 将校たちの人気者となり、 その名は次第にロシア本国にまで聞こえた。 22歳のとき、長崎港に停泊していたロシア 艦隊旗艦の艦長に気に入られ、 ボーイの名目で乗艦、 ウラジオストクに渡った。持参した真珠を売るなどして 大金を得ている。なぜか、 奥地バイカル地方踏査隊にも同行した。 帰ると有名になり、社交界では花形となって、 艦隊幹部や実業家たちと知り合う。 ロシアには9年ほどいて帰国した。31歳であった。 |
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