@ 『松林飯山』(まつばやし はんざん) 天保10年(1839)〜慶応3年(1867) 幕末の肥前大村藩(長崎県)藩士,尊攘派志士。 筑前早良郡金武村羽根戸村に生まれた。 幼名を駒次郎、 字を伯鴻といい、のちに廉之助とあらためた。 飯山は号で、飯盛山の麓に生まれたことにちなむ。 3歳で字を書き、 6,7歳で難しい儒教の本を読み、 神童と呼ばれました。 |
![]() |
|
A 勤王の考え方を藩内に広め 同志である渡邉昇、楠本正隆らとともに 大村藩を倒幕へと導くために力をつくし、 大村藩勤王三十七士の中心人物として活躍。 慶応3年(1867)に自宅前で暗殺されます。 この事件が大村藩を勤王へ決定することとなりました。 |
![]() |
|
B 父は杏鉄(きょうてつ)といい医師であったが、 絵が好きで南画を得意とした。 五教館教授、片山歓治氏の推挙で 藩の御典医についている。 飯山は秋月藩家老から養子に望まれたが 父はこれを嫌い、 妻の郷里七釜の沖の蛎浦の中村家に隠棲した。 |
||
C 14歳の時、参勤交替に従って江戸に上がり、 安積艮斉(あさかこんさい)の塾に学んだ。 伊丹郷町に橋本香坡をたずねたのもこのころ。 香坡不在を待つうち、すっかり酩酊して帰ってきた。 「余は酔香坡なり」と自己紹介したあと、 深更にいたるまで話し合い すっかり香坡に心酔した。 安政4年(1857)19歳の時 幕府の昌平校に入り、 ここで学才を認められて詩文係に任命された。 |
||
D 21歳の時、五教館の教授を拝命し 故郷の大村(長崎県)に帰った。 北海道松前藩、奥州仙台藩、関東、越前、 近畿、中国、九州諸藩の藩士らが大村に学んでいる。 土佐の岩崎弥太郎もその一人である。 文久3年(1863)26歳の時 五教館の祭主についた。 渡邉昇、楠本正隆らとともに 大村藩が倒幕へと向かう、 大村藩勤王三十七士の中心人物となった。 |
![]() |
|
E 慶応3年正月、 大村城中で恒例の謡初式が行われたが、 自宅前まで帰ったところを長井兵庫ら 佐幕派の浪士に襲われて死去した。 「大村騒動」といわれる。 享年わずか28歳であった。 このあと大村藩の勤皇派の動きが活発になる。 慶応4年は明治元年と改元され 明治維新を迎えたのは 飯山の死去1年後の事である。 松林飯山の著述に「飯山文存」がある。 |
![]() |
|
F 補足〜1 「大村騒動」 大村三十七士の盟主である 家老針尾九左衛門を暴漢 が襲い、 三十七士の筆頭の松林飯山が 暗殺されたことから始まりました。 慶応3年正月、城内の謡初めに参加した飯山は、 帰宅途中の午後九時頃、 自宅を目前にして刺客に襲われます。 袈裟の一刀でほとんど体を寸断され、 即死でした。 殺害を指揮したのは 長井兵庫であるとされました。 動機は、治振軒剣術指南役を 渡辺昇に取って代わられた恨み、とのこと。 一方、実行犯として、雄城直記が捕縛。 飯山に対する嫉みといった話もありますが、 確たる動機不明のまま獄殺。 さらに、雄城が自白したとして、 大村邦三郎、大村泰次郎は切腹。 以降、さしたる理由もなく、 あるいはもっともらしい理由で逮捕者は続き、 連座を含めると50名近くが 処罰されて行きます。 粛清終了後、薩長土に対しては、 大村三十七士の名分通り、 大村藩は佐幕派を一掃した、としましたが、 一方、幕府に対しては藩主大村純熈は、 これは私闘によるものである、と報告しました。 結果として藩論は倒幕にまとまり、 大村藩は幕末・維新で大きな活躍をしました。 |
![]() ![]() |
|
G 補足〜2 松林飯山の碑 本経寺の仁王門の前にある。 大村藩勤王三十七士の首領で、 28歳の若さで散った松林飯山の顕彰碑である。 「斃れて復起つ(たおれてまたたつ)」と記され、 飯山の書翰の字を拡大して彫られている。 昭和11年、飯山の70年祭に飯山会によって建立。 |
![]() |