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幕末期 長崎で活躍した人物 
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「五代友厚」   


長崎の歴史のページ
(1)

天保6年(1836)〜明治18年(1885)

江戸末期の武士・薩摩藩士、

明治期の実業家。

薩摩国鹿児島郡長田町城ヶ谷生まれ。

幼名は徳助。通称才助。

関西経済界の重鎮。

大阪経済を立て直すために、

商工業の組織化、信用秩序の再構築を図る。

東の渋沢栄一、西の五代友厚とも称される。

西郷隆盛や大久保利通など

薩摩藩の二大巨頭がいるため

影が薄い感がいなめませんが

薩摩藩出身の経済人として名を馳せました。(1)

天保6年(1836)〜明治18年(1885)

江戸末期の武士・薩摩藩士、

明治期の実業家。

薩摩国鹿児島郡長田町城ヶ谷生まれ。

幼名は徳助。通称才助。

関西経済界の重鎮。

大阪経済を立て直すために、

商工業の組織化、信用秩序の再構築を図る。

東の渋沢栄一、西の五代友厚とも称される。

西郷隆盛や大久保利通など

薩摩藩の二大巨頭がいるため

影が薄い感がいなめませんが

薩摩藩出身の経済人として名を馳せました。
(2)

天保6年(1836)薩摩国鹿児島郡長田町城ヶ谷に

『三国名勝図会』の執筆者で記録奉行の

五代直左衛門秀尭の次男として生まれる。

(後に分家する)

安政4年(1857)に薩摩藩藩士として長崎海軍伝習所に学ぶ。

ここでの経験はその後の功績の元にもなります。

文久2年(1862)に海外視察のため上海に渡る。

このとき30万ドルで売りに出されていた汽船を

12万5千ドルまで値切って購入します。

文久3年(1863)に発生した薩英戦争では、

この上海で購入した天祐丸に乗船して

英国艦隊に拿捕され

寺島宗則とともにイギリス海軍の捕虜となった。

このため無実の疑いをかけられ脱藩。

長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の

取り成しによって一年後に疑いが晴れ

薩摩に帰藩し船奉行副役に任命されます。

この薩英戦争で西洋との格差を痛感し、

技術習得のための欧州留学生派遣を提案して認められます。

慶応元年(1865)五代自身も欧州を視察し、

そこでの経済活動で数々の功績を上げたのです。

(3)

その後藩命によりイギリスとの貿易に従事する。

また、ベルギーとの交渉でも活躍。

特に薩摩・ベルギー商会の設立は

薩摩藩財政に大きく寄与するものとみなされたが、

諸要因により失敗に終わる。

しかしこの経験が

のちの経営手腕に大きな影響を与える。

欧州視察後、明治元年(1868年)に

明治新政府の参与職外国事務掛となり、

外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、

堺事件などの外交処理にあたった。

また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致した。

初代大阪税関長となり、大阪税関史の幕を開けた。


明治2年(1869年)の退官後、

金銀分析所などを設立し、

鉱山経営、紡績、製藍業などをはじめ

実業家として活躍する。

薩長藩閥政府との結びつきが強く、

明治8年(1875)に

大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが

料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、

黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件

にも関わり、政商といわれた。

大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、

大阪商法会議所(現・大阪商工会議所、初代会頭は五代友厚)、

大阪商業講習所(現・大阪市立大学、天王寺商業高等学校)、

大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、

神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)

などの設立に関わった。

鹿児島市泉町(泉公園内)、

大阪市中央区の大阪証券取引所前、

大阪商工会議所前に銅像が建立されている。

(4)

大阪商工会議所ビル前に、

初代会頭五代友厚の銅像が建っている。

右足を半歩前に、右掌を上に一寸前へ出して、

示現流の使い手がいつでも拔刀できるポーズである。

大阪財界の父といってよい働きをした功績によるものだ。

欧州留学して外国事情に明るいことから、

明治元年外国事務局判事として大阪在勤となった。

これが大阪とかかわる第一歩であった。

五代はまもなく官を辞し、民間に投じ、

大阪の商工業界のリーダーとして

現在に続く経済界の基礎を作った。

五代が自ら起こした事業、

設立に関与した会社は相当数になる。

東の渋沢栄一と並び称される五代が

明治18年(1885)51才の若さで亡くなった。

遺言で大阪の土となった。

墓は阿倍野斉場にある。

当時、街のおかみさん連中までが、

「五代はんは大阪の恩人や」と語りついで、

その死を悼んだという。
(5)

明治2年、五代は大久保と協議のうえ実業の道を進む。

当時の大阪の大富豪、

山中善右衛門(鴻池)、

殿村平右衛門、

広岡久右衛門たちを集めて、

まず銀行の前身ともいうべき為替会社と

通商会社を大阪に設立することを要望した

ちょうどその頃、

大蔵省をやめた渋沢栄一も銀行をつくって、

実業界のリーダーとして出発している。

東西で経済界をまとめる人は同じ先見の目があるようだ。

鉱山業、紡績業などに乗り出し、

たちまち鉱山王となった。

現在の商工会議所の前身となる組織つくりや

近代的な経営学を教えること

交通の基盤整備にも参画

多くの経済組織と企業づくりを行った。

さながら会社づくりの神様と称されたと言う。

活版印刷にも先見の明があった。

長崎の本木昌造が活躍出来たのも

この五代友厚の尽力だ。
(6)

エピソード

兄徳夫、姉広子、妹信子といった兄弟と

ともに生まれ育った生家は松林の中という静かな環境で、

父は著名な儒学者、藩の町奉行を務めていた。

質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられ、

8歳になると児童院の学塾に通い、

12歳で聖堂に進学して文武両道を学んだ。

14歳になった時、

琉球公益の係を兼ねていた父親が、

藩主がポルトガル人から入手した世界地図を持って帰宅。

兄徳夫は保守主義者であったため、

早くから異国の文物に興味を持っていた友厚に

これが世界地図だと見せた物と思われる。

そして、その地図には

薩摩はおろか日本も載っていないことを教わる。

それなのに、国内ではやれ薩摩だ、

やれ長州だといって互いに相争っている。

どうして力を一つにして

外国に負けないような国力と技術力を

つくろうとしないのだろうかと疑問を持つ。

藩主が父に申し付けたこの地図の模写を、

友厚は一人で引き受け二枚分を一気に筆写した。

そして一通を藩主に献上して、

残る一枚を自室の壁に掲げた。

地球は丸いというので、

直径2尺ばかりの球体に世界地図を貼り付けた。

16歳の時、藩候に建白書を出して、

海運の隆盛を図って、学生を遊学させるべしと主張。

その願いが叶い藩命にて長崎へ。

当時の幕府は長崎に海軍伝習所をつくって、

オランダ人から航海術を学ばせようとした。

そこには幕臣勝海舟、榎本武揚、

佐賀の大隈重信、

土佐の後藤象二郎、坂本龍馬、岩崎弥太郎、

長州の高杉晋作、井上馨、

紀州の陸奥宗光、

福井の由利公正など

各藩の英才が集まっていた。

後に明治を背負って立つ偉人ばかりだ。

彼らとは藩の枠を越えての交友を持つことになる。

世界に目を向けた五代が

世界を目指した出発点もこの長崎であった。
(7)

五代友厚の格言と名言

 「地位か名誉か金か、

  いや、大切なのは目的だ」

 
 五代友厚が大隈に宛てた手紙より

 「上に立つ者の5ヶ条」

  1.愚説愚論だろうときちんと最後まで聞いてあげること。

  2.自分より地位の低いものが

   自分と同じ意見ならその人の意見として採用すること。

   手柄は部下に譲ること。

  3.頭にきても大声で怒気怒声を発しないこと。

  4.事務上の決断は、部下の話が煮詰まってからすること

  5.自分が嫌っている人にも積極的に交際を広めること


なんとも含蓄があり、現代にも通じるものだ。
(
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