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                        「フルベッキ」−1      歴史のページへ


                                 
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『グイド・フルベッキ』

Guido Herman Fridolin Verbeck

1830年〜1898年

オランダの法学者・神学者、宣教師。

お雇い外国人。

オランダ・ザイスト市出身のユダヤ系オランダ人であるが、

キリスト教に改宗した改宗ユダヤ人である。

ユトレヒトで工学を学んだ。

日本では発音しやすいようフルベッキ(Verbeck)と名乗り、

現在に至るまでこのように表記されている。

A

1830年 オランダ生まれ。
 モラビア兄弟団の教会で洗礼を受ける。

1852年 渡米、ニューヨーク移住。
 コレラにかかり命を取りとめて、献身を決意する。

1855年(安政2)
 ニューヨーク州オーバン神学校入学。

1859年(安政6)
 上海から海路、サミュエル・ブラウンと共に長崎に来日。

1864年 済美館教師。

1868年 
 致遠館(佐賀藩が長崎に建てた英学塾)で教鞭をとる。

1869年 上京。開成学校教師。

1873年 政府法律顧問。

1878年 旧約聖書翻訳委員。

1886年 明治学院理事。

1887年 明治学院神学部教授。

1898年(明治30)
 赤坂葵町で没、68歳。

    青山霊園に埋葬された。



B

米国オランダ改革派教会から

布教のため上海から長崎に派遣されたが、

明治維新前の日本では

宣教師として活動することができなかった。

しばらくは私塾で英語などを教え生計を立てていたが、

やがて幕府が長崎につくった英語伝習所

(フルベッキが在籍した当時は洋学所、

 済美館、広運館などと呼ばれた)

の英語講師に採用された。

大隈重信、副島種臣と親交があった。





C

また、オランダで工科学校を卒業した経歴から、

工学関係にも詳しく

本木昌造の活字印刷術にも貢献している。

来日時、長崎の第一印象を

「ヨーロッパでもアメリカでも、

 このような美しい光景を見たことはない」

と記している。

上野彦馬が撮影したフルベッキの写真が

長崎歴史文化博物館に残されている。



D

フルベッキは7男4女をもうけた。

来日して間もなく生まれた女の子は、

日本にちなみ、エマ・ジャポニカ・フルベッキ

(1860年1月26日〜2月2日)

と名付けられた。

短い生涯を閉じたこの娘は、

稲佐国際墓地に埋葬された。

息子のグスタヴ

(Gustave Verbeek、1867年〜1937年)

はアメリカに渡り、

ニューヨーク・ヘラルド紙などに寄稿した漫画家となった。

また、孫のウィリアム・ジョーダン・ヴァーベック

(William Jordan Verbeck、1904年〜)

は陸軍士官学校を卒業後、

アメリカ陸軍第24師団歩兵第21連隊長として

太平洋戦争に従軍、

レイテ島・リモン峠で第一師団と戦った。

彼については、大岡昇平の『レイテ戦記』に紹介されている。


E

〜フルベッキ写真〜1


「フルベッキ写真」とは、

フルベッキとその次女・エマ

(夭逝した長女と同名)を囲んで、

致遠館の塾生と岩倉具定・具経兄弟などが集まり、

写真師上野彦馬によって撮影された写真。

現在の研究では、

撮影時期は1868年12月

(明治元年10月〜11月)頃とほぼ特定されている。

この写真は古くから知られており、

1895年(明治28)には雑誌『太陽』で

佐賀の学生達の集合写真として紹介された。

その後1907年(明治40)に発行された

『開国五十年史』(大隈重信監修)にも

「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」

とのタイトルで掲載されている。




F

〜フルベッキ写真〜2


1974年(昭和49)肖像画家の島田隆資が

雑誌『日本歴史』に、この写真には

西郷隆盛・高杉晋作・勝海舟・坂本龍馬・

大隈重信らが写っている

とする論文を発表した。

(翌々年にはこの論文の続編を同誌に発表)

島田は彼らが写っているという前提で、

写真の撮影時期を1865年(慶応元)と推定。

佐賀の学生として紹介された理由は、

敵味方に分かれた人々が写っているのが問題であり、

偽装されたものだとした。

この説は学会では問題にされなかったが、

一時は佐賀市の大隈記念館でも

その説明をとりいれた展示を行っていた。

また、1985年(昭和60)には

自由民主党の二階堂進副総裁が議場に持ち込み、

話題にしたこともあったという。


G
〜フルベッキ写真〜3


また、2004年(平成16)には、

朝日新聞、毎日新聞、日経新聞に

この写真を焼き付けた陶板の販売広告が掲載された。

東京新聞が行った取材では、

各紙の広告担当者は

「論議がある写真とは知らなかった」

としている。

また、業者は

「フルベッキの子孫から受け取ったもので、

 最初から全員の名前が記されていた」

と主張している。







H
〜フルベッキ写真〜4


この写真の話題は

間歇的に復活して流行する傾向がある。

ちなみに最初に島田が推定した維新前後の人物は

22人であったが、流通する度に徐々に増加。

現在では44人全てに維新前後の有名人物の名がつけられている。

また、大室寅吉という名で

後の明治天皇が写っているとした説や、

「明治維新は欧米の勢力

(例:フリーメイソン)が糸を引いていた」説等の陰謀論、

偽史の「証拠」とされる例もある。

I
〜英学の師フルベッキ〜1


もしフルベッキが来日しなかったら、

今日の早稲田大学は無かったかも知れない。

なぜなら、幕末に長崎にきた彼が、

キリスト教布教のかたわら英学を教え、

そこで学んだ大隈がやがて日本の近代化をめざして、

東京専門学校を創立することになったからです。

それほど彼は、

若き大隈の識見と人格形成に大きな影響を与えた。
J
〜英学の師フルベッキ〜2


フルベッキは、オランダのユトレヒトに生まれ、

幼い時ギュツラフ博士の講演を聞いて

東洋への伝道を夢見た。

工業学校を卒業したのち、

しばらく鋳物工場で働き

成人して1852年に米国に渡り、

設計技師として働いていたが、

炎暑に倒れ死線をさまよった時、

「回復したら一生を伝道に捧げます」

と祈り、病癒えると

神学校に学んで敬虔なキリスト信者となります。

日本は1854年(安政元)に日米和親条約(横浜港開港広場)を結び、

1858年(安政5)に欧米諸国と通商条約を結んで開国。

日本への宣教師が派遣されることになり、

かねてからアジアへの布教を希望していたフルベッキが

それに応募し、同僚とともに1859年(安政6)に

新婚の夫人を伴い長崎に来たのでした。

29歳の時です。

キリスト教の伝道のかたわら、

塾を開いて日本の青年たちに英学を教える仕事を始めます。

佐賀藩の役人として長崎にきていた大隈が、

この英学塾で学び、大きな影響を受けたのです。



K
〜英学の師フルベッキ〜3


大隈はここで大変な秀才ぶりを発揮したらしく、

フルベッキが

「私は二人のごく有望な生徒をもった。

 それは副島種臣と大隈である。

 彼らは新約聖書の大部分を研究し、

 アメリカ憲法の大体を学んでしまった」

と賞賛した話が伝えられています。

そののち大隈は、さらに英学を広めるために

みずから「致遠館」という私塾をつくり、

フルベッキを校長に迎え、

自分も教師になって学習に励みました。

これがのちに早稲田大学の原点となったのです。

フルベッキは、明治政府の成立後東京に出て、

大隈らの推薦で開成学校・華族学校・

明治学院の教師や政府の翻訳顧問などをつとめ、

さらには旧約聖書翻訳委員や

ナポレオン法典を紹介するなど多面的に活躍しました。

しかし、1897年(明治30)東京で没し、

青山墓地に葬られました。


L

補足〜1


オランダではVerbeekでフェアビークと呼ばれていた。

アメリカ移住のとき

アメリカ人が発音しやすいようにVerbeckと変えた。

青山墓地のフルベッキの墓碑銘が

Verbeekと刻されている、としている。

フルベッキが新婚のマリア夫人とともに

長崎に赴任したのは1859(安政6)年の11月。

翌年1月、マリア夫人は女児を出産したが、

日本が開国して、最初に生まれたクリスチャンの子供

であることを喜び、

エマ・ジャポニカ・フルベッキと名付けた。

しかし、数日にして天に召された。

フルベッキの長崎伝道は

このように悲しみのうちに始まったのである。

宣教師として来日したフルベッキだが、

伝道に専念できたのは晩年になってからだった。

巧みな日本語の講和で、

日本各地を伝道して廻るのが晩年のフルベッキの姿だった。
M
補足〜2

フルベッキは日本政府が

信教の自由を認めることを常に祈っていました。

また、もう一つ願いがありました。

日本が1858年に結んだ通商条約などの

不平等の是正を実現させたい

という二つの願いは一緒にかなえられます。

フルベッキはアメリカ、ヨーロッパに

不平等条約を改正するため

天皇の使節を派遣することを大隈重信に示唆します。

しかし、大隈重信は

二年たって、政府内に

不平等条約を何とかして改正したい

という議論がされるようになったとき、

大隈は岩倉具視にフルベッキの提案、

ブリーフ・ノートを示します。

欧米との交渉でこういうことを主張しなさい。

そうすればこういう反論がなされるでしょう。

それにはこう答えなさいと、

岩倉はその提案が余りにもぴったりなので、

驚いてフルベッキを招き説明を求めます。

まさに日本政府として願っていた事であったので、

それから二カ月更に詳しい計画を建て、

岩倉具視以下、内閣の大部分が行くという

三十数名の大使節団を編成し、

22カ月という思い切った長期の交渉と

視察の旅行をします。

その報告書は、

幕府から派遣された木村遣米使節団のものと比べ、

格段に優れています。

どうして初めて行く国で、

詳しい部分まで見ることが出来たのか不思議でしたが、

フルベッキの計画があったことが戦後明らかになり、

謎が解けました。

しかし、フルベッキの働きは

伝道局の部長にのみ報告されるだけで硬く秘密とされ

フルベッキの功績は表されませんでした。



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