@ 嘉永元年(1848)〜大正9年(1920) 佐賀藩士 従6位。 嘉永元年(1848)佐賀鬼丸に生る。 幼い頃、父道保が佐賀藩御納戸方として 江戸詰めに在ったとき、 父に伴って江戸に住む。 慶応元年(1865)長崎致遠館で フルベッキについて英語を学び その後、佐賀藩立海軍寮で英語を教授。 明治2年(1869)佐賀藩軍艦電流丸 艦長真木長義に従い長崎に航海したとき、 夜間にこっそり英国船に乗り込み、 上海に密航し、英租界で活躍。 |
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A 明治9年(1876)アメリカ建国百周年を 記念するフィラデルフィア博覧会に、 有田の香蘭社の通訳として参加。 一旦帰国し、明治5年北海道開拓使出仕、 参謀本部出仕等に歴任せしも辞職。 明治11年(1878)に再度渡米 三井物産ニューヨーク支店主任として活躍。 明治18年(1885)東京に帰国、煙草販売業を始め 直輸入のアメリカ煙草で莫大な財産を築きます。 当時の一番人気の煙草は「ピンヘッド」だったとか。 明治38年(1915)煙草専売法の実施により 満州朝鮮にて煙草販売法の基を作り。 東西煙草株式会社を創設、 外国煙草の進入防止に全力を尽くす。 その他台湾に煙草を栽培し煙草の自給を図り、 又、千葉県下に約百町の土地を開墾して 畜産事業を起こすなど 社会公共事業等に貢献。 大正9年(1920)3月18日病を得て没す。 享年72。 |
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B 補足 大隈重信と江副廉蔵 大隈重信が佐賀藩校弘道館の蘭学教授となり、 長崎へ行くその途中 益田宗二郎の実家である仲林家に必ず立ち寄った。 仲林家の隣には、 代々この地の支配を命ぜられていた江副家があった。 重信が仲林家へ立ち寄ると、 必ず呼ばれて来るのが江副廉蔵であった。 廉蔵の姉美登は 大隈重信の最初の妻です。 美登は中央に出て行く重信と離縁したのですが、 廉蔵と重信の交流は終生続きました。 |
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