商品案内 おもいで 還暦茶会 店主紹介 買います 購入案内
長崎の歴史 古民芸 道 展覧会の案内 リンク集 長崎の産物 掲示板


幕末期 長崎で活躍した人物 
 b-etou-sinpei    
「江藤新平」-1   


               長崎の歴史のページ  江藤新平-2
(1)

初代司法卿
任期 明治5年4月25日(1872年5月31日)

- 明治6年(1873年)4月19日


肥前国佐賀郡八戸村(現在の佐賀県佐賀市鍋島町)

に佐賀藩士の江藤胤光・浅子の長男として生まれる。

江藤家は肥前小城郡晴気保の地頭・千葉常胤の末裔を称する。

父は「手明鑓」という身分の下級武士であったとされる。

       
(2)

嘉永元年(1848年)に藩校の弘道館へ入学し内生(初等中等)

課程は成績優秀で学費の一部を官給されたが、

父が職務怠慢の咎により郡目付役を

解職永蟄居の処分となったため生活は困窮し

外生課程に進学せずに弘道館教授で儒学・

国学者であった枝吉神陽の私塾に学び、

神道や尊皇思想に影響される。

このころ新平は窮乏生活を強がって、

「人智は空腹よりいずる」を口癖にしたという。

(3)

江戸時代後期の外国船の日本近海への出没や

アメリカのペリー艦隊やロシアのプチャーチン艦隊などが

来航して通商を求めるなどの時勢の影響を受け、

安政3年(1856年)には意見書である『図海策』を執筆する。

1850年に枝吉神陽が義祭同盟を結成すると、

大隈重信・副島種臣・大木喬任・島義勇らとともに参加した。

安政4年(1857年)に結婚。藩の洋式砲術、

貿易関係の役職を務める。


(4)

志士活動

文久2年(1862年)に脱藩し京都で活動し、

長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)

や公家の姉小路公知らと接触する。

2ヶ月ほどで帰郷し通常脱藩は死罪であったが、

新平の見識を高く評価した

藩主・鍋島直正の直截裁断により永蟄居(無期謹慎)

に罪を軽減されたとされる。

蟄居後は寺子屋師匠などを務め、

同士との密かな交流や幕府による長州征伐(幕長戦争)

での出兵問題では

藩主・直正への献言を行うなど政治的活動は続けている。

(5)

15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行って

幕府が消滅した慶応3年(1867年)

の12月に新平は蟄居を解除され、

郡目付として復帰する。

薩摩藩、長州藩は公家の

岩倉具視と結び明治元年(1868年)

の王政復古の大号令を行い、

新政府が誕生すると佐賀藩も参加し

新平は副島種臣とともに京都に派遣される。

(6)

戊辰戦争で江藤は征東大総督府軍監に任命され、

土佐藩士の小笠原唯八とともに江戸へ偵察に向かう。

薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟の会談で

江戸城の無血開城が決定するや、

江藤は城内の文書類を接収する。さらに京都へ戻り、

大木喬任と連名で岩倉に対して

江戸を東京と改称すべきこと

(東京奠都)を献言する。

(7)

旧幕臣らを中心とする彰義隊が活動していた問題では

大村益次郎らとともに討伐を主張し軍監として

上野戦争で戦い彰義隊勢を上野寛永寺周辺に追い詰め、

さらに佐賀藩のアームストロング砲を遠方射撃する

戦術などにより彰義隊は瓦解する。

明治2年(1869年)には、

維新の功により賞典禄100石を賜っている。

(8)

明治新政府の官吏として

戊辰戦争が一段落した新政府が設置した江戸鎮台においては

長官の下の6人の判事の1人として会計局判事に任命され、

民政や会計、財政、都市問題などを担当する。

7月には江藤の献言が通って明治天皇が行幸して、

江戸は東京と改称される。

(9)

明治3年(1870年)1月には佐賀に帰郷して着座

(準家老)に就任して藩政改革を行うが後に中央に呼び戻され、

同年11月に太政官中弁となる。12月、

虎ノ門で佐賀藩の卒族に襲撃されて負傷する。

明治4年(1871年)2月には

制度取調専務として国家機構の整備に従事し、

大納言岩倉に対して30項目の答申書を提出する。

近代的な集権国家と四民平等を説き、

国法会議や民法会議を主催して

箕作麟祥らとともに民法典編纂に取り組む。

(
                                     長崎の歴史のページ  江藤新平-2